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2012年1月

2012年1月31日 (火)

デボーションメール20120131

■ヨブ1:21そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」1:22ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

★次々に試練が臨み、遂には7人の息子と3人の娘が天災で亡くなった時にヨブが語った言葉が上の内容です。十字架に釘付けられた一番苦しいその時、キリストは「父よ彼らをおゆるしください。」と祈られました。人は最も苦しいその時、どんな言葉を語るかでその人の内面を表すことになるのです。そしてヨブは上の言葉を語ります。あなたは「その」試練の中でどんな言葉を語りますか。

聖書には実に様々な人物が登場します。

ヨブはまさにクリスチャンの鏡のような人だと私は思っています。

私はこのような試練に出逢ったことはありません。

いったい私はどんな言葉を語るのでしょう?

神様にうらみつらみを言うかもしれません。
でも、結局は神様にすがるしかない私がそこにいるのです。

それさえ忘れなければ少なくとも
恨みがましいことをグダグダいうようなことはしないでいられるのではないか
と思っています。

 

■使徒6:8さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。……6:15議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

★教会でおこった差別の問題の解決のために立ち上がったステパノ。自分の人生を捧げて主と教会に仕えていたら、彼は聖霊に満たされいつの間にか天使の様に輝いていたのです。人は与えることを通して輝き、より祝福されます。何をどれだけ持っているかではなく、持っている者を神と人のためにどれだけ捧げるか、すなわち貢献の人生を選び取るかで人は違った人生を歩みます。「受けるよりは、与える方が幸いである」と語られた主のことばを心に留め、実際の行動に生かしましょう。ヒデ

ステパノと言えば石に打たれて亡くなった人…、そう頭に浮かびます。

彼は信仰ゆえに、その命を石打ちによって奪われたのですが、

息をひきとるその瞬間もその心はしっかり主に向けられていたことでしょう。

ひとはどれだけ持っているかではなく、どれだけ与えられるかでその値打ちが決まります。

2012年1月30日 (月)

デボーションメール20120130

■詩篇148:13彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。

★「主をほめたたえよ」と全体で勧め、その根拠について最後に「その威光は地と天の上にあるからだ」で締めくくられる詩篇です。あなたは被造物の中に神様の威光感じていますか。

被造物に神様の威光を感じるということはどういうことでしょうか?

 

うーん、難しい。
この世に存在するものはすべて、ハエ1匹も砂の一粒も神様によって造られたということでしょうか?

 

何かを作り出す人間の知恵も神様が授けて下さったものだと思っていますが、

 

そういうことなのでしょうか?

 

■マラキ3:10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。─万軍の主は仰せられる─わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。3:11わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。─万軍の主は仰せられる─

★知って下さい主の心を。主は僅かな私たちの財を奪い取りたいわけではありません。むしろさらに多く与え管理させたいのです。しかしどれ程の人が財の祝福を祝福として受け取れるか。「私を試してみよ」と神様が語られる箇所はここだけです。与える心、憐れみの心を自身の民に養いたい父なる神様の心を受け取りましょう。

神様を試す、

 

そんなことはできないと思っています。

 

けれど主は、ここで「私を試してみよ」とお語りになる。

 

私が神様の民であるなら、

 

私の中に与える心、憐みのこころを、
どうか主が養って下さいますように。

 

 

■使徒5:38そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。5:39しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、……釈放した。

★分からないことを先走りして裁かず神様の御手に委ねる。真のパリサイ人ガマリエルの選択です。心に留めましょう。あなたは先走りしていませんか。ヒデ

ガマリエルのこの言葉は一見とても信仰にかなっているように思えます。

 

言っていることはもっともなことなのですが、
本当に信仰心から発せられた言葉なのでしょうか?

 

逃げ腰とでもいうのでしょうか?

 

ある意味、ガマリエルをずるいとでもいうのでしょうか?

 

そういう見方があるということを知り、その時のガマリエルの本心を探ってみたい気がします。

 

ただ、
先走りせず神様の御手に全てを委ねる、

 

このことだけは確かです。

2012年1月29日 (日)

デボーションメール20120129

■マラキ1:7あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。

★預言者ハガイとゼカリヤの激励を受けてイスラエルはバビロンからの帰還後、神殿再建後に立ち上がります。しかし彼らが期待するような祝福が訪れなかったとき、イスラエルの礼拝は空虚な形式と化し、神様へのささげ物、律法の遵守は軽視されます。そんな時預言者マラキは上の言葉を取り次ぎます。あなたはあなたの思い、期待が願ったように行かない場合どんな反応を神様にあらわしますか。願わくはお互いの霊の目が近視眼から解放されますように。

この部分はどういう意味なのかさっぱりわかりませんでした。

 

神様に祈るということは願いごとをしてかなえていただくということではありません。

 

私は神様を御用聞きのように思って願い事をしています。

 

例えば、どこかへ出かける時、行く道帰る道を守って下さい、

 

というように祈ります。

 

これは願い事だと思います。

 

願い事をしてもかまわないのだと思います。

 

大切なのは願ったことがかなわなかったときの自分の在り方です。

 

叶えない、ということにより神様は答えを下さっています。
祈りは神様との会話だと私は考えます。

 

■使徒4:12この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」4:13彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。

★いったいどうした事でしょう。何がこんなに弟子たちを、ことにペテロを強くしたのでしょう。婦人のことばにさえ臆病風をふかせ逃げ出したペテロなのに。答えは主です。主がどんな時にも共にいてくださる。そこに目が開かれる。そして自らもその主と共にいることを願う。決して自分の意志や努力や能力によって強くなるのではありません。あなたはあなたを強くして下さる主によって何事でもできると聖書が語ることをしんじますか。ヒデ

私は神により強くされる。

私は幼いころ暗闇をとても怖がりました。

 

そんな私のために母は一晩中明りを点けておいてくれました。

 

けれど、私は神様の存在を実感していくうちにだんだん闇を恐れなくなりました。

 

また、こんなことがありました。

 

夢だと思うのに目覚めることができない。

 

そのとき私は眠っていました。

 

暑い夏の夜、開け放した窓から幼い子供が入って来ました。

 

子供は白く半分透明でした。

 

楽しそうに笑いながら部屋の中を飛びまわりました。
不思議と怖いという気持ちはなかったのですが、

 

なぜか目覚めなければいけない、と思いました。

 

目を開ければこの幻影は消える、と思いました。

 

一生懸命目を開けているつもりなのに子供は声をたてて楽しそうに部屋の中を飛び続けました。

 

神様、助けて下さい・・・、と祈るのに目が覚めません。

 

それなのに、
イエス様、助けて下さい!

 

とその名をよんだとたん、ピタリと笑い声はやみ姿は消え去り、

 

静寂の中に横たわる自分の気配だけを感じました。

 

名前を呼ぶ、ということはとても大切なのだと思いました。

 

この時まだ私は洗礼も受けていませんでした。

 

ただ神様の存在には気付いていました。

 

あなたの信じている神様に名前をつけるとすれば、それはイエスキリストです、

 

とにこやかに言い放った人がいましたけれど、

 

それからわたしは自分の信じる神様がイエスキリストであるということを確かめたい
と思うようになりました。

 

2012年1月15日 (日)

幸いなるかな、あわれみ深い人

本日の説教は山上の説教から。

あわれみとは?
単にかわいそうだとか気の毒に思う感情のことではなく、
実際の行為のことであると先生がおっしゃいました。
善きサマリヤ人は強盗に半殺しにされたユダヤ人を救いました。
また放蕩息子がボロボロになって戻った時、
父はありったけのもてなしで迎えました。
あわれむ、或いは、同情するというと、
あまりよくないイメージを
もつ場合があります。
同情なんかされたくない、
とか、
他人から憐れまれるなんてプライドがゆるさない、
人間の同情、或いは憐憫の情は時として、
相手に失礼だったり、相手を傷つけさえします。
けれど、
神様が下さるあわれみは
そんな安っぽい感情とは全く違うということです。

2012年1月14日 (土)

賛美

先日の祈祷会では、
もう一つ、賛美について学びました。

わたしのさんびはあなたからでるのです。
(詩篇第22篇26節)

本当の賛美は、
神様が送って下さった聖霊様により
引き出されるのです。

牧師先生、
賛美は心の高まりを伴うからテンポが速まる傾向にある、
とおっしゃる…。
正しく歌うことも大切ですが、
神様への思いのほとばしりということでしょうか。

教会の聖歌隊は、今少し寂しい状況かな。
以前指導して下さっていたO兄は、
一緒に歌いましょう、練習だけでもどうぞ、
ということで、私は練習にだけ時々参加していました。
今は指導者が替わり、
毎週通常礼拝後に賛美練習、
何らかの行事で歌う時の飛び入り参加はご遠慮下さい、
と厳しいので、わずか数人になってしまいました。
私も聖歌隊の練習に加わることは全くなくなりました。

1月12日の祈祷会

今週の祈祷会は木曜日でした。
いつもは水曜日の午前と午後に神様が
皆を集めて下さるのですが、
今週は火、水曜日に牧師先生のお集まりがあり、
木曜日に変更になりました。

キリスト教には“教え”がありません。
そこが他の宗教と違うところなんですね。
他の宗教には“教え”というものがあります。
仏教などにはとても素晴らしい“教え”がありますよ。
で、キリスト教にあるのは、
イエス様。
イエス様そのものです。


2012年1月11日 (水)

私の聖書2

ぁ、そうです、金色で…。
まだ、金がピカピカしてます。
いかに、開いてないかってことですよねー。

と笑いましたが、反省。

この聖書…日本聖書協会の口語訳、は、
私が今の教会に通うようになってから、
新しく買い求めたものでした。
以前使っていたのは、
新改訳(日本聖書刊行会)、
最初はこちらを使っていましたが、
頁数も違うし表現も違うので不便さを感じ、
親しくしていただいていたM姉に、
聖書を一冊欲しいのですが、とお願いしました。

この聖書はM姉が私の為に選んで下さったものでした。

聖書が来てますよ、
と手渡され、価格を聞いた時は、
こちらの教会では高価な聖書を使っているんだなと思いました。

さすがページをめくる部分は金がはげ落ちてきていますが、
まだまだきれいなものです。

この金がはげて輝きを失っていくほど、
私の心は輝きを増すのでしょうか。

2012年1月10日 (火)

私の聖書

驚きました。
大きな聖書(現代語訳)です。

我が家の本棚にある百科事典(百科辞典?)ほどです。
そして、重い(笑)。

価格は\9,800。

ちょっと高いですけどねぇ…。
とS先生。

確かに一万円札を出して200円のお釣りという金額は
私にとって、安い!とは言い難い金額です。


あ、でも…、
今、使っている聖書の方が高いです。
確か…\13,000ほどしました。

おぉ、革表紙のですね、金色になってる…。
と先生。
金色というのは小口の部分のことで、
専門用語で、小口金もしくは三方金
というようです。

貸出用の聖書はビニルの装丁で小口は普通です。
今までこの違いを意識したことがありませんでした。

2012年1月 8日 (日)

義に飢えかわく

本日の説教は、
マタイ5章1~12節から。

義に飢えかわく、ということは、
どういうことなのでしょうか。

我々はイエス様の贖罪により、
神様の前に義とされました。

けれど、
自己中心的で身勝手な我々の実態は
罪人のままです。
言わば、罪ゆるされた罪人。

では、
今、私のすべきことは何か?
それは、
神の義を求めること。

神様は、聖霊様を送って下さいました。

義に飢えかわけ、
神の義を求めよ。

義に飢えかわき
義を求める者となりたい。

2012年1月 6日 (金)

他者のために死ねるか

元旦礼拝のお説教は心に突き刺さりました。

イエス様がこの私の罪のために十字架にかかって死んでくださったこと、

もっとも尊い行いは友のために命をささげること。

イエス様がこの世を友としてしてくださったこと。

他者のために死ねるか?

私には、できない。

わたしはチュウイチ君のように“あほう”よばわりされてはいない。

かといってさほど賢い、というわけでもない。

わかっているのは、

私が実に取るに足らないつまらないものであるということだ。

それでも神様は、

私があなたがたを選んだのだ、

と言ってくださるのだろうか。

私は、“あなたがた”のうちのひとりなのだろうか。

2012年1月 2日 (月)

続・元旦礼拝

先生はチュウイチ君を捜し回りましたが、行方はわからないまま日が過ぎていきました。彼は放浪癖があったからどこか放浪の旅に出たのだろうと先生は思いました。
 そんなある日、一人の紳士が先生を訪ねてきました。ヤマモトチュウイチ君を知っているというその紳士は船長さんでした。『チュウイチ君は死んだ。』とその人は言いました。
 彼は荷物を沢山積んだ船で港を出て、沖で嵐に遭いました。座礁して船底に穴があき海水がどんどん入り込みました。乗組員達がもうダメだと観念した時、船底から早く船を出して下さい、早く、という声が聞こえてきました。見るとチュウイチ君が船底から必死に叫んでいるんですね。
 いつのまにか海水がとまっている…、
そこで乗組員達は一生懸命船を動かし陸に着けました。そして船底で既に息絶えているチュウイチ君を見つけたそうです。
 彼は座礁して開いた穴に自分の脚を突っ込んで水の侵入を防いでいました。そして船が動き出した時、なんと彼の脚は引きちぎられていたのです。出血多量による失血死でしょうか。
 自分の足でちょうど穴を塞ぐことができる、そう思った時、彼は何の迷いもなくその穴に脚を突っ込んだに違いありません。彼は脳に障害を持ち“あほう”と呼ばれた人でした。大飯食らいで親戚からも見捨てられた彼は本当に“あほう”だったのかもしれません。もし、賢い人ならそこに脚を突っ込んで海水の侵入を防ぐなどということはしなかったかもしれません。

以上が牧師先生のお話です。
 その後、聖餐式、献金の時がもたれ、午後からは親睦会。残った人達で一緒にお雑煮やお節をいただきました。
 愛する天のおとうさま、過ぐる一年の御恵みに感謝し、新しい一年を下さったこと、喜びをもって神様に祝福を捧げます。主イエス様の御名によりお祈りいたします。アァメン

2012年1月 1日 (日)

元旦礼拝

今年の元旦は日曜日。
聖日礼拝と重なりました。
例年は11時からですが、
今年は15分早めて、10時45分からでした。
ヤマモト チュウイチ君という人のお話。
彼は病気のため脳に障害があったそうです。
大飯食らいで毎夜のようにおねしょをしました。
親戚からも見捨てられ、乞食のような生活をしている時、ある学校の先生に拾われました。
人は彼を“あほ”とよびました。
彼が入学したために学校は“あほ学園”と呼ばれ、他の生徒が彼を退学させるように先生に抗議しました。
しかし先生は応じなかったのでチュウイチ君以外の生徒は学校を辞めてしまいました。
そんなチュウイチ君の特技は素手で蝿をつかまえること。
ところがある日、チュウイチ君は外出したまま夜になっても戻りませんでした。〈つづく〉

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