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2012年2月

2012年2月29日 (水)

デボーションメール20120229

■ヨブ42:7主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。42:8今、あなたがたは……ヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。……わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。……42:10ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。

★ついに神様ご自身がヨブとその友に現れて下さり、ヨブの正しさを明らかにして下さいました。ヨブは傷口に塩をすり込まれるような言葉を友からどれほど聞かされたことか。しかしヨブはその友のために赦しと祝福を祈ります。その時神様はヨブの繁栄を元どおりにされ、所有物もすべて2倍にされました。「私は神様から幸いを受けているのだから、災いも受けるべきではないか」と神様に対しては呪うことなく、友に対しては赦しに生きるヨブ。人が心に刻むべきことを真に教えるヨブ記でした。

ヨブは神様の御前に正しいひとでありながら、
これ以上ないほどの多くの災いを受けました。
教会員の方のお嬢さんは、少し複雑な病気を抱えていらっしゃいます。

定期的に健診を受けなければならないのに、

全く病院にはいかないそうです。
そして、
「神様が本当にいるのなら、なぜ私をこんな病気にするの?」
こんな病気にした神様をうらむ、
と熱心なクリスチャンであるお母様に訴えられたそうです。
そのお母様は御主人とお嬢様おひとりを残して天に帰られました。

ある信徒の方は、その方がそこまで生に執着なさるとは思わなかった・・・

とおっしゃいました。
やや批判的なひびきもあったのかもしれません。
後に残していく一人娘さんの病気、
家事の経験など全くないに等しい御主人、

彼女が生に執着したことが間違っていたとは思えない私。
少しでも生きながらえるために努力したって
神様はお叱りにならないと思います。


■2コリント1:8……私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、1:9ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。1:10ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

★苦しみを通して使徒パウロに与えられた確信です。試練は苦しいものです。しかし人がその試練の中でもあくまでキリストの内にあり続けようとする時、その人の生涯を通して主は栄光を現されます。ヒデ

ネブカドネザル王にどんなにひどい仕打ちをされようとも、
「それでも私は神様を信じる。」
主は私を握りしめていて下さいます。

神様の指の隙間からこぼれおちそうな私。
生きる価値もないような私でも神様は
その手にしっかり握りしめていて下さいます。

2012年2月28日 (火)

デボーションメール20120228

■詩篇149:3踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。149:4主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。

★主はご自分の民を愛しておられます。憐れみに満ちた心をお持ちです。そして全ての権威と全能のみ力をお持ちです。主を褒めたたえましょう。主に近づきましょう。主を信頼し心を開いてあなたの心を注ぎ出しましょう。あなたは富める人ですか、それとも貧しい人ですか。主は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と語られました。

この聖書の個所もノンクリスチャンの方々からは意味わからん、
と言われてしまう個所です。
今の日本語ならよろしくない意味にt使われることが多い。
牧師先生が“清貧”と解釈したらよい、とおっしゃいました、


■1コリント15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。15:51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。15:52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

★パウロはその宣教の生涯、迫害の中で幽体離脱(2コリント12:2)の経験をしました。死後の生を体験しました。自らの体験とキリストが語られたことが一致する経験をしました。そして天国と再臨を確信しました。主は再び来られます。あなたを栄光に輝くものとするために。

私は幽体離脱のしたことなどないしおそらくこれからも経験することはない、
と思っていますが、
死後の世界について脳みそを振り絞って考えてみたことはあります。

子供のころの話ですが。今は、
“肉の衣を脱ぎ捨て、扉を開けて向こう側へいくようなもの”
と思っています。



■1コリント16:20すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。

★聖なる口づけとはキリスト者の同性同士の挨拶の仕方です。関係の近さを感じます。近すぎ? 彼らは強いられてではなく、聖霊に満たされていた故に、御霊によってそのように導かれたのでしょう。いずれにしてもその兄弟愛は世を問い、世に衝撃をもたらすものでした。ヒデ

教会では私のことを○○姉妹(しまい)、
とよんで下さいます。

また牧師先生が他の教会員の方を△△兄(けい)

と呼んでいらっしゃるのを耳にします。
我々は神様の御前において、兄弟姉妹であり、ひとつの大きな家族です。
私はこの一員に加えていただいたことをとてもうれしく思います。


罪のゆるし(つづき)

だけど、律法は
我々を罪から浄めてはくれるものではありません。
律法を行わない者は呪われる、
とありますが、律法は
我々を呪いから救い出してもくれません。

イザヤ書38:17には、
あなたが我が罪をことごとくあなたの後に捨てられた、
とあります。
神様と我々の間を妨げるもの(罪)が
全くないことを意味しています。

また同44:22には、
わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した、とあります。
これはイエス様の十字架により
神様の記憶から我々の罪が消し去られた
ということです。

ミカ書7:19に、
あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、
と書かれています。
海の深みに投げ入れ…、
つまり、罪はもう二度とひきあげられることはないのだと言っています。

我々はイエス様のあがないで徹底的に罪ゆるされたのです、
律法でもなく、他のなにものによってでもなく。

2012年2月27日 (月)

デボーションメール20120227

■1コリント13:1たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。13:3また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

★異言によって御使いと語ることができる。山を動かす完全な信仰を持っている。聖書知識において他者の追従をゆるさないものを持っている。慈善奉仕に心を砕いている。凄いことではないですか。確かにそのように感じます。しかし御言葉ははっきりと、「愛がなければ一切は無益、何の役にもたたない」と語っています。「何の役にも」です。意味がないのです。さて一度しかないあなたの人生を後悔しないため、まず求めるべきものは何でしょう。

異言、
以前私の通う教会にいらしたS先生は、
何かのときに異言を口にしたことがあるとおっしゃったそうです。
けれど異言が絶対的なものだとはおっしゃいませんでした。
聖書にはそういったことは書かれていないからです。
今の教会に導かれるまで御縁のあった
教会と名のつく集まりはいくつかありますが、
そのひとつに単立の教会があります。
私自身が礼拝に通ったわけではありません。
勤務先の近くで保育園があり、子供がお世話になりました。
コイノニアで同じグループに属す教会の大先輩が、
「あそこも異端なんですよ。」

と言われた時は非常に驚き、軽い反発も覚えました。
しかし、それは抑えて・・・、

というか、私には反論する材料がなかったからです。
その教会とは一緒に活動することもありましたし、
まさか統一教会やものみの塔のような異端だとは
おおよそ信じ難かったのです。

「なぜですか?」
「あそこはペンテコステでしょ。彼らは異言を語らなければ・・・。」
その時の説明はよく覚えていないというか
よく理解できなかったのですが、

すると、横にいらっしゃったその方の奥方が猛然と、

「ペンテコステは異端じゃないわ。
だって実妹の行ってる教会はペンテコステよ、あそこは異端じゃないわよ。
そもそも、ペンテコステは・・・。」
お二人の議論を聞きながら私はさらにわからなくなりましたが、

今まで自分の信じていたものが異端だと言われたのはショックでした。

けれど、牧師先生はそんなこと、一言もおっしゃらないし、
一緒に活動もされているのだから、

(よく思っていらっしゃるのかどうかはわかりませんが、
少なくとも異端とはおっしゃいません。)

気にしないことに決めました。
ただ異言が絶対的なものだとは聖書には書かれていない
ということがわかりました。

大切なのは“愛”なのですね。

確かに“愛”がなければどんなに美しいことばも相手の胸には響かない、

時として“愛”をもってしても響かないこともあるのですが、
“愛”
が足りませんか?


■1コリント14:37自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。14:38もしそれを認めないなら、その人は認められません。

★主の弟子パウロが教会の徳を高めるために、預言や異言について解き明かす箇所です。初代教会においてはこれらの賜物が豊に用いられ、ひとりびとりが生かされていました。礼拝のスタイルもこの箇所と比較すると現代の方が形式的になっているようにも思います。初代教会の自由さの秘訣は何でしょう。その答えが上の御言葉です。それぞれが神様の主権を認め、その語りかけに従っていたのです。真の自由とは無秩序、放縦とは対局にある解放です。神様を畏れることを通して、神様から認められ、人にも認められる人生を選び取りましょう。ヒデ

自分は礼拝に出席している、というだけで満足してはいないだろうか?

私が初めて牧師先生とお話した時のことです。
「よくいらっしゃいましたね。」
「有難うございます。
今まで、来れる時、来たい時に来させていただいておりました。」
「あ、そうですか、じゃあこれからは、すこうし、無理していらっしゃって下さいね。」

そう言ってほほ笑まれたのをよくよく覚えています。

少しの無理ならできるかも、単純に思った私。

罪のゆるし

2月26日、この日の説教題は
『罪のゆるしの福音』
我々日本人はあまり罪を犯さない人種のようです。
そもそも日本人は、他人に知れると恥ずかしいので、
悪いことをしないのだそうです。
逆に言えば、人に知られないところでなら、
悪いことをすることがあるかもしれないですね。

けれど、神様は心の中に
“良心”という番人を置いて下さいました。

罪って何でしょう?
神様の定めて下さった生き方からはずれることです。

旧約聖書では細部に至るまで律法で厳しく定められていて、
私なんか旧約聖書を読むと、
もうダメだと思ってしまう。

だけど…

2012年2月26日 (日)

デボーションメール20120226

■1コリント12:26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。 ★「身体が備えられた目的は」との質問がゆるされるななら、その答えの一つに、「内にあるいのちを表現するため」と言うことができるでしょう。教会もそのことはしかりで、神様はキリストの身体なる教会を通してご自身のいのちを世に現そうとなさいました。そのために求められるのが、御心に基づく一致です。私たちの努力や力で一致できるものではありません。聖霊様に触れられるときひとつとなりえるのです。聖霊様すなわち御霊様は生ける神様で、リアルなお方です。そしてこのお方はみこころのままに、おのおのそれぞれに賜物を分け与えて下さるのです。聖霊様を歓迎しましょう。心の内でこのお方を認めましょう。このお方がお互いの上に臨みそれぞれの心を満たし、溢れて下さるように求めましょう。イエス様は、復活昇天なさるとき「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と語られました。この世が、キリストの身体である私たちの交わりと愛の行いによって希望を抱くことができるようになり、癒しを受け取ることができますように。 聖霊様、聖霊様、 私はよくわかっていません。 主とは、キリストとはなんぞや、 とたずねられれば 一言で・・・。 私をお造りになった方です。 あるいは天地万物の創造主、 キリストは救い主、 天の父なる主を太陽とすれば、イエス・キリストは光線に値する御方で、 天の父なる神と同格とみなすことができます・・・ とその部分だけは誰かの受け売りで答えます。 しかし聖霊様、についてはうまく言えないのです。 聖霊様って何?と私に尋ねる人もありませんが。

2012年2月25日 (土)

デボーションメール20120225

■詩篇122:1人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。122:2エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。

★立つべき人が立つべき所に立つことはその人のみならず多くの人々の祝福となります。この詩篇の記者は自らそれを喜び、その実現のために行動しました。あなたはどうですか。

立つべき人が立つべき所に立つ。
私自身が立つべき所に立つべき人なのかそれがわかりません。
望まない転勤で異動してきた人がいました。
常に不安と不満が心に渦巻いていたようです。
ことば少ない人でしたが、何かの折りに口をついて出ました。
少なくとも私は来たくて来たんじゃない、
ミスも少なく仕事は善くしてくれましたが、
私や周囲は気遣いで疲れ果てました。

なぜこんな人事をしたのか、管理課のバカ者ども、
と心の中でつぶやきました。

そのたび、私はいけないいけないと思いなおし、

努めて明るく振る舞い、感情を押し殺しました。
誰よりその人自身が一番つらい、

穴があいたところに同じ体積の土を持ってきても埋まり切らない、
より多くの土が必要だ、と言うではないか。
その人は来るべくしてここに来た、それは神様の御考えだ、
そう思い続けて祈りました。
ただ・・・、私はそれでよかったのかもしれないけれど、
他のスタッフに我慢を強いてしまったのは事実です。



■1コリント9:21律法を持たない人々に対しては、─私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが─律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。9:22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

★偉大な指導者パウロの告白です。彼の足は地に着き、自己満足の虚栄に走るものではありませんでした。常に大切にしたのは目の前の一人、祈りは幾人かでした。沢山の人のためにではなく、あなたは一人の人のために何ができるでしょうか。

祈祷会では、自分以外の人のために祈ることをします。
自分のこともいい加減なのに、他の人のために祈ることが、

おこがましかった私でした。
けれど、神様が喜んで下さるのです。
こんなに未熟者の私が他の人のために祈るなんて
(ちょっとエラそうではないか)
ですがわたしは自分が考え違いをしていたことをはっきり知りました。
実はうまく説明できませんが、
自分以外の人のことを思いやることができるように、
そのことに資格はいらない、
との神様の御心を感じています。



■1コリント10:12ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。10:13あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

★自分は大丈夫とのおごりがお互いの心に潜んでいるとき、人は大きな失敗をしてしまうことがあります。しかしそれさえもご自身の憐れみの中で益に変え、ご自身の栄光に変えて下さるお方。それが主です。仰ぎましょう。救いはいつもこのお方の中にあります。ヒデ

実は、自分は大丈夫、と思っている私。
だって私には神様がついて下さっていますから。
私が疲れたら神様は私を背負って歩いて下さいますから。
って、いつも背負っていただいているような気がします・・・

2012年2月24日 (金)

デボーションメール20120224

■1コリント8:7しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。8:8しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。8:9ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。

★当時偶像にささげた肉の残りは市場で売られていましたが、その肉を食べたら汚れるのではないかと食べない人がいました。また異教徒から食事に招かれた時、その肉を食べてもよいのかと不安を抱く人もありました。実際は祈りによって全てのものは清められます。そもそも神様が祝福として人に与えて下さっているからです。けれども、不安を抱く人々のまえでこれ見よがしに行動する必要は全くありません。むしろパウロは「なぜあなたは弱い良心の人に配慮し、行動を慎まないのか。あなたはなぜ愛を行動基準として生きないのか」と問うのです。知識は人を高ぶらせますが、愛は人の徳を立てます。自己満足で自分を誇る道ではなく、弱い人に寄り添い、互いに励まし合う道を選ぶ人は幸いです。ヒデ

私の信仰は自己満足だ!

2012年2月23日 (木)

デボーションメール20120223

■ヨブ34:35「ヨブは知識がなくて語る。彼のことばには思慮がない」と。34:36どうか、ヨブが最後までためされるように。彼は不法者のように言い返しをするから。

★エリフのヨブへの語りかけです。彼はヨブが苦難の教育的意義を悟るまで徹底的に試練を受けるようにと突き放します。エリフの場合、自分を神の代理者としてヨブと対決する姿勢を選びましたが、ヨブの傍らに寄り添い、ヨブに対してではなく、神様に向かって執り成す祭司の姿勢もとれます。あなたはどちらを選びますか。

神の代理者なんて・・・、なんて恐れ多い。
と思うのですが、
私こそ、無意識に神の代理者をきどっていることがあるのでは?



■1コリント5:6あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。5:7新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

★ほんの僅かの高慢がアドバルーンの様に人を高い所に追いやり、自分では降りれないようにします。なんと感謝でしょう。主はその高慢を砕く場所が十字架であることを教えて下さいました。主の愛によって砕かれ続ける道を選び取りましょう。

“高慢チキ子ちゃん”という女の子が出てくる漫画を読んだことがあります。
詳細は記憶にありません。
お笑い漫画でしたけれど、
滑稽でどこか哀を感じさせる彼女のキャラは基本的に素直になれない、
ということが原点にあったようです。
神様に思いっきり砕かれたら、素直になれるかな、私。



■1コリント10:12ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。10:13あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

★今あっているその試練。その中にも神様があなたと共にいて下さり、あなたを支えていて下さると言うのです。信じますか。そしてこのお方は必ず脱出させて下さいます。あなたはこれを信じますか。ヒデ

これは信じられます!
と言うと、では、貴女は何を信じてないわけ?
と心の中で自分に問いかけるもう一人の私。
うーん、信じてないというか、

聖書に書かれてあることはまるっぽ本当のことだから、

信じる信じないをここで云々しても仕方ないわけで、

私が信じようと信じまいと関係なし、真実は動きません。
私は今まで耐えられないような試練に出会ったことはありません。
まあ、たいした試練を経験していませんが、
それこそが証拠。

2012年2月22日 (水)

デボーションメール20120222

■1コリント2:1さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。2:2なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

★地上の教会は戦いの教会とも言われます。よって問題や痛みがなくなることはないでしょう。上の言葉はコリントの教会に宛ててパウロが書いた手紙ですが、使徒としての立場を認めてもらえない人々の前で彼が心に決めた内容です。「誇るものは主を誇れ」。この決心があなたを救い、あなたの道を開き、完成へと至らせます。ただ十字架に着けられたキリストを見上げる以外どうしようもない問題があなたの前に置かれることもあるでしょう。主はそれをご存じです。パウロの決心をお互いの決心とさせて頂きましょう。

「誇る者は主を誇れ」
この世の愚かな者、弱い者、無力な者、身分の低い者、軽んじられている者
すなわち無きに等しい者を、あえて選ばれた、とあります。
少なくとも今の私の生活環境で身分が低いという言い方はしませんが、
無きに等しい者、はまさに私のことだと思わざるを得ません。



■1コリント3:13各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。3:14もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

★その人の働きが最後の審判にも耐え得るものかどうか試されるときが来ることを上の御言葉は教えますが、そのためには、与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように、土台を据える必要があることをパウロは教えます。土台は既に据えられているのです。イエス・キリストです。せっかくのあなたの人生の働きが、最後の審判で焼き尽くされてしまうものではなく、主から報いとして受ける冠として残るものでありますように。ヒデ

この歳になって自分の人生の働きは、と言われると
そもそも残るべき、あるいは焼けるものがあるのだろうか?
実のない人生、などと言うけれど、まさに私のことではないだろうか?

2012年2月21日 (火)

デボーションメール20120221

■ガラテヤ5:13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。5:14律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

★律法に生きることが肉の働く機会となるとはどういう事でしょう。ただイエス・キリストの十字架の贖いの恵みによって救われたクリスチャンが、自分の行いを誇り、あたかも自分の良き行いのゆえに神様に受け入れられたかのように錯覚し、他者を蔑み始めるようになる危険性のことです。そういう意味で、ここで律法の目的が隣人愛にあることがセットで記されていることは注目に値すべきです。愛がなければ一切は無益です。あなたの内に潜む動機は、おごりですか、愛ですか。

母が「クリスチャンってみんないい人ばっかりに見える
というのです。
「あら、私も一応クリスチャンなんですけど」
三浦綾子女史が教会に導かれた時、
必ずしも暖かく迎えてはいただけなかったそうです。
しかしそれは逆に、
「教会にもこんな人がいる、ならば自分も教会へ行ってもいいのだ」
という思いをもたれたそうです。
私は今の教会に、とても暖かく迎えていただきました。
まあ、いろんな方がいらっしゃるんですけども、
みんなそういう思いをかかえているからこそ、教会に集っています。



■ガラテヤ6:7思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。6:8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。6:9善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

★意識してかせずしてか、それは別として、私たちの人生は種まきのようです。律法主義の、おごりに蒔くか。愛に蒔くか。律法主義の実は不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興の類で、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。お互いの人生にはどんな実がなっているでしょう。今日はしばらく立ち止まり、イエス様と一緒に、このことを吟味する日としてはどうでしょう。主との交わりの上に祝福をお祈りします。ヒデ

私の中に、神様を侮る気持ちはないと思ってはいます。
けれど自分がそう思っているだけで、知らず知らず、
神様への侮りがおこってきているかも。
仏教ならば、まあ、なんてバチ当たりな!と叱られるところでしょう。


2012年2月20日 (月)

デボーションメール20120220

■詩篇120:6私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。120:7私は平和を──、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。

★作者が乱暴な異邦人の中で住んでいた時のことを詩的に表現する内容ですが、平和に生きたいと願い、またその努力もしようとする作者。しかし、彼が口を開くと、難しさを経験します。あなたもこうした経験をお持ちかも知れません。主を見上げましょう。

ここまで厳しくなくても、
些細なことであっても、
ふと、わかってはもらえないだろうな、

と思うことがあります。
こんな時、ひとはふと主をみあげるのでしょうか?
主はこちらをごらん、と言って下さっていますか?



■ガラテヤ3:26あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。3:27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。3:28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。3:29もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

★ながらく律法のもとにあった私たち。それは私たちの内にイエス・キリストによる信仰が引き出されるためでした。神様の奴隷ではなく子とされた特権の中を歩ませて頂きましょう。ヒデ

旧約聖書には立法が語られています。
日常生活における様々なことが細かく定められ、
なぜイエス様が神の子羊と言われるのかもわかります。
私は新約聖書を読むとほっとします。

イエス様に限りない優しさを感じるからです。

その優しさは甘えるものではないと思ってはいます。
それでも、涙が音をたてず流れるような、
そんな優しさが感じられるのです。
こんなこと言ってはいけないのかもしれませんが。

2012年2月19日 (日)

デボーションメール20120219

■ヨブ28:24神は地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られるからだ。28:25神は風を重くし、水をはかりで量られる。28:26神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。28:27そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、これを定めて、調べ上げられた。28:28こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」

27-31章までヨブがその心の内に抱いていた格言とも言うべき言葉が披瀝されます。その中でも驚くことは、どんな試練の中でも神様に対する呪いや不信仰、つぶやきのないことです。あなたはどうですか。ただただヨブの偉大さに敬服します。

■ガラテヤ2:20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。2:21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

★「二千年も前に赦されていた」というワーシップソングがあります。歌詞を紹介しますと「自分の弱さや至らなさのため、時には悩み沈むこともある、だけどイエス様を見上げたのならば十字架の意味押し寄せてくる。もう二千年も前に、私は赦されてた。イエス様の大きな、大きな愛を感謝します」です。そして今日の御言葉は、まさにこの讃美に現れたイエス・キリストの赦しをしっかりと受け取った存在としてのパウロの告白です。存在が赦され、認められた者は自分を十字架に付けることが出来、赦しに対する感謝としての貢献の生涯を歩み始めることが出来ます。あなたはもうご自身を十字架につけられましたか。ヒデ

自分は赦されているのをいいことに罪を重ねている。
救いようのない奴、というのは私のことではないだろうか?
それでも、偶像を拝むことはしないし、
困った時の神頼みはイエス様である。
『この言葉は嫌いですが、あえて言うなら我々クリスチャンは勝ち組です』、
そうおっしゃった先生がいらっしゃいましたが、

はてさて私は勝ち組にいれていただけるのでしょうか?

私は弱い、根性無しで、辛ければきっと神様にうらみつらみを 並べるにちがいない。
今までそういうことがなかったのはそこまで辛い思いをしたことがないからである。

2012年2月18日 (土)

デボーションメール20120218

■マルコ15:33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。15:34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

★捨てられはずのないお方が、捨てられて当然の私を救うために、神様に捨てられて下さった。それによって罪人が神様の前に立ち返ることのできる救いの道が開かれた。まさにこの十字架上のキリストの宣言が聖書の救いの根拠、キリスト教の中心です。主はあなたの存在と生涯と贖うために十字架上にご自身のいのちを捧げて下さいました。その代価をもって贖うために。ゆえに父なる神様がご覧下さる時、私たちは代価を払ったキリストと同じ価値ある、かけがえのない存在です。

聖書のこの個所はとても重要で、時にキリストを否定する材料にもなり得るところです。
イエスと言えど、ヒトの子だ、今わの際になると、やはり泣きごとを言っている、
と言う人がいます。
私はそれに対して「そうではない」と思うのですが、説明できません。
ただ、
イエス様が父である神様に向かって
うらみつらみの泣きごとを言うような
世俗的な方ではない、
と主張するばかりです。



■マルコ16:5それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。16:6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

★深い悲しみと失意のゆえにいつまでも立ち上がれそうにないときがあります。しかしキリストはあなたをその所から連れ出して下さるお方です。ご自身そこから甦らせられたのです。父なる神様は、ご自身をおそれ、ご自身の御心に餓え渇くお互いを陰府に捨て置かれるままにすることはありません。信じましょう。私たちに必要なのは信仰と忍耐です。ヒデ

神様はさじ加減をよくわかっていらっしゃって、
私に重すぎる荷物は背負わされません。

思えば私の人生はいつもひとりではなくどんな辛い時も、
やがてはそこから救い出されることがなんとなく感じられました。
このように不信仰な者をも神様は拾い上げ続けて下さいました。
なんとかなる、というけれど、神様はなんとかして下さる御方です。


2012年2月17日 (金)

デボーションメール20120217

■ヨブ25:1シュアハ人ビルダデが答えて言った。25:2主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。25:3その軍勢の数ほどのものがほかにあろうか。その光に照らされないものがだれかいようか。25:4人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。25:5ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。25:6ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである。

★3人の友人の主張の最後となるビルダデの言葉です。神様の絶対的主権を強調しますがこれもヨブの心に触れるものではありません。結局、さまざまな伝統的な知恵を論拠とする彼らの理解をもってしては、ヨブに解決をもたらすことが出来ませんでした。深い試練の中にある友のために何が必要なのか、考えさせられます。そしてその答えは言葉ではないようです。いえ、どんなに知恵深い言葉でも届かない悲しみや試練を人は経験することがあることを覚えましょう。

悲しみはことばではなく感情です。
ことばによって癒されたり、活路を見いだせることもあるのですが、

もっともらしいことばがかえって相手を傷つけてしまうことも多い。

私はヨブのように正しい人ではないので、
深く悩むこともないのかもしれません。

ものすごい不良、ぐれてどうにもならない若者に、
私も経験があるからわかる、私もあなたのようだった、

と言ってみて何の助けになるでしょうか?

あんたの昔話を聞いてもしかたないんだ、

今の俺をどうにかしてくれよ、
と言われてしまいます。
私はいわゆるおりこうさんでしたから、
ぐれたり不良になるなんて怖くてできませんでした。

人から後ろ指さされるなんてそんなことになったらエライことです。
両親を悲しませ、親戚には申し訳が立たず・・・
そんな苦しいことは嫌です。

でも、今、
道を踏み外している人たちと比べて自分がどれだけ立派か、
と言われれば、神様の前に義でないということにおいて
なんらかわりありません。

偽善者ぶってる分、まだ悪いかもしれない。

■マルコ14:60そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」14:61しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」14:62そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

★なぜ大祭司は聞く備えも出て来ていないのにこの決定的な質問をしたのでしょう。この質問は返ってくる言葉を簡単に聞き流せないテーマです。従うか、従わないか、それでその人の永遠を分ける内容です。あなたは聞く用意が出来ていますか。ヒデ

この大祭司は当時の世間的な常識に従っただけで、
深く考えずに質問したのではないかという気がします。
それまでに祭司長や議会はイエス様に偽証をたてましたが、
その証言が合わず彼はイライラしていたのかも。
あなたはキリストですか?
それで「そうだ」と言われれば、なんと大それたことを言う、

とそれを口実にイエス様を死に追いやれるのです。
大祭司は自分のした質問の重要性を
自分でわかっていなかったのだと思います。
最初から結果のわかっている裁判です。

イエス様の命がけの返答は再臨を意味するものでした。
大祭司カヤパは「けがしごと」の一言で片づけてしまいました。

2012年2月16日 (木)

デボーションメール20120216

20120216_ヨブ23_マルコ12
■ヨブ23:10しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。
★原因不明の試練と友のさげすみの中での、ヨブの神様に対する信仰告白です。こうしてヨブはいかなる場合にも神様を正しいとし、呪うことをしませんでした。なおヨブの試練は続きますが、この告白の結果がヨブへの神様の顕現とすべてのものの2倍の回復へとつながります。詩篇62:8には「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」とあります。

いかなる試錬であっても神様はさじ加減を心得ていらっしゃっるし、
いざという時は避け所になられる御方です。



■マルコ12:15イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」12:16彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。12:17するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。
★律法学者、パリサイ人の主への反感は激化し主を何とか陥れようと策略をねります。この章はそのことがよく表されています。その中での主の答えですが、実際の主権者が誰で、永遠の世界についても目の開かれている者としての答えでした。「カイザルのものカイザルに。神のものは神に」もその一つですし、「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」と、かつて神に仕えた僕達が今なお生きていることを示し、死後の生を明らかにしたのもその一つです。どんなに周りが陥れようとしても、真実を知り、それを見ていたなら打ち負かされることはありません。主の目撃者となりましょう。ヒデ

主の御顔を仰ぎ観ることのできるところで生活したい。

2012年2月15日 (水)

デボーションメール20120215

■詩篇121:1私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。121:2私の助けは、天地を造られた主から来る。121:3主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。121:4見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。121:5主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。121:6昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。121:7主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。121:8主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

★今まさに巡礼の旅に出ようとしている人の言葉で旅の不安を言い表しています。あなたの助けはどこから来ますか。

聖書のこの個所を開いてみました。
都もうでの歌 と書いてあります。

都もうでの歌は121節にかぎられたことではありませんが、

私の聖書は“天と地とを造られた主からくる”のところに線がひかれていました。

何かのときにこの個所が引用されたように思います。

かなしいことに、憶えていません。

ただ、この天と地をつくられた方は主である、
或いは主が天と地を造られたという事実がここにも示されています。

■マルコ9:22この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けくさい。」9:23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」9:24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

★キリストはあなたの不信仰を正してくださるお方です。思えば人が何かを成し遂げるための一歩は信じることです。不信仰ほどに祝福を退け、夢を奪うものはありません。

私は信じる、信じているつもり、になってはいないでしょうか?

その実、不信仰になって祝福を退けてはいないでしょうか?

■マルコ10:27イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

★あなたは自分を見て満足し、希望を抱く人でありたいですか。自分を超えた大きなお方を見て、自分では成し遂げられないことを成し遂げる人でありたいですか。ヒデ

神様の手の内になくては生きられません。

何かを成し遂げるとまではいかなくても
ここにこうして生かされていること自体が神様の御技によるものです。

2012年2月14日 (火)

デボーションメール20120214

■ヨブ22:21さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。22:22神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。22:23あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。あなたは自分の天幕から不正を遠ざけ、22:24宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置け。22:25そうすれば全能者はあなたの黄金となり、尊い銀があなたのものとなる。

★ヨブへの友のことばも3巡目となりました。エリファズのことばです。友のことばはもっともなことばです。そのもっともなことばで皆ヨブを追い詰めます。しかし、そのもっともな言葉はヨブが負わされた、いわれのない試練の真実とは違うのです。むしろヨブの声に耳を傾けることの大切さを覚えます。またあなたがヨブの立場なら、あなたはヨブの様に自分の考えを大切にしていますか。既にどこかでどうせ分かってもらえないと心を閉じて諦めてしまってはいませんか。

本当にもっともなことばですね。
私なんか、こんなことを言われたら

ギャップに苦しむ自分はもう救いようのない人ということになりそうです。
もっともだと思うから、聞こうとするだろうし、

いつまでたっても救われない。


■マルコ7:10モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。7:11それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、7:12その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。

★この世の力は神様の言葉さえ自分に益をもたらすためなら都合良く変えてしまおうとの誘惑をしかけます。それを受け取ると、あなたは偽善者となり霊の力を失います。誘惑はあまりにも大きいです。その誘惑から自らを守るカギは「イエス様だったらどうなさるだろうか」です。自分の内に細く小さく語りかけて下さる神様の語りかけを大切にしましょう。ヒデ

神様のことばを都合のいいように受け取っています。
勝手な解釈と思いこみで。
イエス様は笑っていらっしゃるのでしょうか?

愚かな小さき者、と私を笑って、

それでもその手にすくい上げて下さるのでしょうか?

2012年2月13日 (月)

デボーションメール20120213

■マルコ5:41そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)5:42すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。

★会堂管理者ヤイロの娘が重い病で死にそうな時、ヤイロは主を訪れ、娘の癒しを懇願します。ところが少女のもとに向かう途中ハプニングが。長血を患った婦人に主が時間をとる中、ヤイロの娘は息を引き取ってしまったのです。「恐れないで、ただ信じていなさい。」とはその時語られた主のことばです。結果はどうでしょう。上の御言葉の通りで少女は主によって甦らされます。あなたは目に見える課題に支配され過ぎていませんか、すでに諦めてしまってはいませんか、しかしここから教えられること、それは主は問題よりよりも大いなる方、主にあっては遅すぎることはないと言うことです。神様はご自身を愛するものと共に働いて全てのことを最善になすことのできるお方です。信じましょう。

キリストの行った奇蹟のひとつです。
死人を生き返らせるなどということは神様にしかできません。
人はすぐに奇蹟を求めます。

でもキリスト教は御利益宗教ではありません。
この奇蹟の本当の意味を知らなくてはならないと思います。


■マルコ6:50というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。6:51そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。

★湖の向こう岸に渡ろうとするものの嵐のためにこぎあぐねる弟子たち。主は湖の上を歩いてそこにあらわれました。幽霊だと驚き戸惑う弟子たちに主は上のことばをかけられ、彼らの舟に乗り込んだのです。その結果は御言葉の通りです。問題の大きさが問題ではなりません。問題よりも大きなお方があなたの傍らにいて下さるのにそれに気づかず、自分だけで人生を乗り越えようとすることが問題です。あなたの人生に主をお迎えしましょう。主は助けて下さいます。ヒデ

私こそ、どこかで、自分だけで人生を乗り越えようとしてはいないでしょうか?
神様に全てを委ねる人生でありたいものです。

2012年2月12日 (日)

デボーションメール20120212

■ヨブ20:1そこでナアマ人ツォファルは答えて言った。20:2それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため、私は心あせる。20:3私の侮辱となる訓戒を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。20:4あなたはこのことを知っているはずだ。昔から、地の上に人が置かれてから、20:5悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。

★自分が想像するように悔い改めないヨブに苛立ちを覚えるツォファルの言葉です。人の話を聞くこと、理解すること、受け止めることの難しさを覚えます。多くの場合、人は色眼鏡を掛けてその人を見、聞き、いえ、聞いているようで実はそうではなく自分の考えを相手に受け入れさせるため、その糸口を探そうとしているだけかも知れません。

人間は所詮、自分の物差しでしか測れないと思っています。
私もそういうひとりです。

他人を自分の物差しで測ってあれやこれや、言う人が確かにいます。

とりあえず、聞くだけは聞いてみようと思う。
そこから何か見つかることもあります。
その人の意見がおかしい、と気づくこともあるし、それはそれでいい。
自分の本当の気持ちに気づくこともあるかも。



■マルコ3:13さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。3:14そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、3:15悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

★ここに主があなたに目を留められ、声を掛けられた理由があります。あなたは主のお望みになった人です。悪霊さえも追い出す権威を持たせたいと願っている人です。イエス様のその心を知って、キリストの思いを受け取りましょう。

イエス様には十二使徒がいました。

イエス様は完全な御方ですが、弟子はそうではありませんでした。

イスカリオテのユダに至っては何をか況や、です。
ある意味、
彼のその行為は父なる神様の御意志にそったものだと言う人もいますが。
イエス様が目に見えない御姿になられた時

らは力を発揮し始めます。
キリストを、福音を述べ伝えるひととなります。
あんなに弱っちい人間だったのに。
私はとてもそこまで強くなれそうにない・・・



■マルコ4:19世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。4:20良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

★最初からよい地なんてありません。しかし心に語られる神様の言葉を受け入れ、明け渡し、そこに従順する時、不思議です。心は耕され変えられ実を結ぶものとして頂けるのです。ヒデ

畑を耕す時、固くなった土にスコップを入れてひっくり返します。
少しくらい雑草が生えていてもおかまいなしにひっくり返します。
ひっくり返した塊をスコップの先でつつき砕いてやります。
このようにして畑の土に空気を入れてやります。
これはとても大切なことで、土に生ごみを埋めてもきちんと耕してあげないと、
よい土にはなりません。
くなってしまったら雑草しか生えません。
土も生きて息をしています。
の心も生きて息をしています。
様の種が蒔かれる時、よりよく育っていくように心も耕しておきたい。

命の言葉をもれなく人々に語る

本日の説教、

聖書の個所は使徒行伝5章17~32節です。

サドカイ派の人たちは嫉妬の念に満たされ、

弟子たちをとらえて公共の留置場にいれてしまいます。

サドカイ派の大祭司とその仲間は、

次々にしるしと奇跡を行い、民衆の尊敬を集める弟子たち、

そしてどんどんクリスチャンが増えていく・・・

そのことに嫉妬したのでした。

夜になると、主の使いが獄の戸を開き、

「さあ行きなさい。そして宮の庭に立ち、

この命の言葉をもれなく、人々に語りなさい。」

主は彼らを安全なところへ逃がすためではなく、

命の言葉を語らせるために獄から出されたのです。

弟子たちは、これを聞き、

夜明けごろ宮に入って民衆を教え始めました。

弟子たちは、

ただただ、主の言葉に従い、神様の命令に従いました。

ペテロは言っています。

「人間に従うよりは、神に従うべきである。」

また、こうも言っています。

「永遠の命の言をもっているのはあなたです。」(ヨハネ6:68)

もう一点、

使徒行伝23:8には、

パリサイ人とサドカイ人の主張の違いが明記されています。

サドカイ人は、復活、天使、霊とかの存在を否定しており、

パリサイ人はこれらはみな存在すると主張しています。

今日は受付の御奉仕をさせていただきました。

礼拝堂の外で聴いていたのですが、

正直、少し聴きもらした部分もあります。

2012年2月11日 (土)

デボーションメール20120211

■ヨブ19:25私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。19:26私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。19:27この方を私は自分自身で見る。

★「私を贖う方」これはヨブ記の中で最も重要な聖句です。この言葉は元来、親族中の助力者を表す言葉ですが、ここでは天的救済者を指して用いられています。災いを与えた神様のみが自分を回復し得るお方としてヨブは告白しているのです。ヨブの場合はそうではありませんが、たとえあなたに罪があり、その結果あなたに災いが与えられたとしても、神様はそれで終わらせないお方です。あなたはこれを信じますか。

信じます。


■マルコ1:16ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。1:17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

★主は祝福の基とするために人を召し出されるお方です。かつてはアブラハムを「父のもとをはなれ私が示す地に行きなさい。あなたを祝福の基とする」と、そしてここではペテロで「わたしについて来なさい。」と、今度イエス様はあなたを召し出そうとしておられるのではないですか。不思議です。従うなら神様はあなたを創って下さるお方です。



そういえばどなたかがアブラハムとアブラムはえらい違いだと言っていらっしゃいました。
人間をとる漁師とはどういう意味でしょうか?

なんとなくわかるのですが、それを説明できません。




■マルコ2:27また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。

★主はあなたを縛るために召し出されるお方ではありません。解き放つため、建て上げるためです。キリストと共に人々に祝福をもたらす人とする、それが主のあなたに対する計画です。ヒデ

安息日は人間のため、人間のため・・・
人間は安息日のため、いや、違います。
私が安息日のために存在するとしたら、それはやっぱりおかしいです。
もう一度、聖書を開いてみます。

2012年2月10日 (金)

デボーションメール20120210

■詩篇114:5海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。ヨルダン川よ。なぜ、さかさに流れるのか。114:6山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。114:7地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。114:8神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。

★イスラエルがエジプトから脱出した時のことが語られています。神様は民を不思議にも紅海の底を渡らせ、ヨルダン川の水をせき止め、更には荒野の岩から泉を湧き上がらせ。約束の地へと導きます。すなわちここで偉大な神様の救済能力が歌われています。それはかつてのことではありません。主は今もあなたを救済されます。主が語られる細き御声に耳を傾けましょう。その声に従うのです。崩れないはずの壁も、渡れないはずの断絶も乗り越えさせて下さいます。

出エジプト記をとりあげた映画『十戒』を見たことがあります。

古い映画ですが、紅海の水が壁のようにそそり立ち、海底に道があらわれてそこを

イスラエルの民が渡って行くあの壮大なシーンは今でも目に焼き付いています。
あれが神様の御技でなければなんなのだということです。
主の御声は細い、とあります。
一生懸命に耳を傾けないと聞こえないのです。

信仰は確かに努力に支えられるものではありませんが、

ここはひとつ、その前段階として主の細き御声に耳を傾ける努力をしてみたいのです。

せめてそれを忘れないための努力をしてはいけないでしょうか?

自己満足になっているでしょうか?

■使徒28:30こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、28:31大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

★使徒の働きの最後の節です。カイザルに上訴したパウロは、今やローマで監視の兵隊が付けられたものの、自由に生活することができました。留められたと思った宣教活動も、考えてみればこの時、彼が書き残した多くの書簡が後に聖書と定められ、時を超えた広がりをもって展開して行くのです。あなたは今試練の中にありますか。八方塞がりで夢と将来を描くことが困難になっていますか。しかしあなたが主の御手のうちに生きるなら、今こそがチャンスの時ではありませんか。主の救いを信じましょう。そして今できることを忠実に成し遂げましょう。神様はそれをやがてなくてはならないものと変えて大きく用いて下さるお方です。ヒデ

いかなる困難にあってもそれが主のおはからいであると信じれば、
それはチャンスだと気づくこともあるでしょう。

私はそこまでの試練にであったことはありませんが、

日常の中に神様の細き御声を聞き、全てのことが何を意味しているかを、

考える自分でありたいと思います。

塞がってしまったら、祈ります。

今まで塞がったことは何度もあると思うのですが、

すぐに『苦しいときの神頼み』で切り抜けさせて下さったので、

私にはそれとわからないほどです。

祈祷会2月8日

とても寒い日でした。
冷たい風があちこちで音をたてていて、
いかにもさびしい感じがします。
私は司会で、ぎりぎりまで賛美を選んでいました。
神様が奉仕の場を与えて下さったことに感謝致します。

赤信号、皆で渡ればこわくない、
というブラックな標語があるけれど、
私たちは皆がしていると、
よくないことでも罪の意識が薄れはしないだろうか。
なんとなく皆がそうだと安心していないだろうか…。

狭い門から入れ、と聖書にはあります。
滅びに通じる門は広く通りやすいし、
その道は平らで歩きやすい。
ふとラジオから聞こえてきた昔のヒット曲“365歩のマーチ”
二番の歌詞の冒頭の部分、
幸福の…何が狭いのか小さいのかよく聞き取れなかったけれど、
だからしゃがんで通るのね…、
と歌われていました。
幸福につながる道は入りにくく通りづらいのだと、
それこそ、皆が知っている…そんな気がしました。
正しい道をしっかり歩く、
神様から離れそうになる時、
祈りが足りない、のかも知れません。
信仰浅く愚かな小さき者、
罪に満ち汚れた自己中心者、
救いようのない者なのに、
神様はその手に握りしめて下さっています。

祈りたいと思います。

2012年2月 9日 (木)

デボーションメール20120209

■ヨブ17:1私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。17:2しかも、あざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。17:3どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。

★言葉にならない霊的、身体的苦しみにもまさり、説得しよう、悔い改めさせようとの友からの傷つけることば。そうした苦しみの中でヨブは上の言葉を神様の前に注ぎ出します。この時は今だ希望は見えていませんが、19:25では「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。19:26私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」とヨブの霊の目は開かれ確信が与えられます。苦しみの中にある方がいらっしゃいますか。失望してはなりません。神様は必ずあなたを保証するお方として救い出されます。

私は苦しみの中にいると言えるのでしょうか?

私は甘美な苦しみの中にいます。

失望はしていませんが、これがどういうことなのか、
いつも考え続けています。
ヨブのように正しい人がこのような苦しみを受け、霊の目が開かれるというのです。

私など到底到達し得ない、という気がします。

■使徒26:17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。26:18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』26:19こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、26:20……悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。

★パウロはなぜ福音の宣教者となったのか。彼が天からの啓示に背かなかったからです。神様の啓示に従うことで人は造られ、歴史が造られていきます。我が願いではなく御心に生きることを選び取る人々によって希望と平和は広げられるのです。神様の語りかけに対する従順の中を歩みましょう。ヒデ

祈ることは願い事をすることではない、
神様は御用聞きではない、

キリスト教は御利益宗教ではない。

よく、そう言われます。

中世、免罪符などというものを売りだし、これを買えば天国に行ける、

とはなにをかいわんや、ですね。
世の中にはキリスト教をかたり、さまざまな物を売りつける事件が起きています。

一時は社会問題となったほどで、近年はオレオレ詐欺が話題になっていましたが、
そのレベルに近いものかもしれません。
ただ、宗教がらみですと、
本人に騙す意志があるのを証明するのが困難なため
泣き寝入りになることが多いそうです。
中には本当に信じてつぼなどを売る人もいますからね。

要は『幸せはお金では買えない』と肝に銘じておくことが大切です。

こんな単純なこと、誰でもわかっているはずなのに・・・

もちろんお金で買える幸せもあります。

でも根本的に違うでしょ?

話がそれました。

祈りの時、もちろん願い事をしてもかまわないのです。
けれど神様の御心が他にあるのならそれに従います、

という気持ちでお願いごと、したいと思います。

2012年2月 8日 (水)

デボーションメール20120208

■使徒22:6ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。22:7私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞きました。22:8そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』と言われました。

★決してそうではありませんでした。彼は神殿に異邦人を連れ込んだりしていません。ただギリシャ人でありつつユダヤ教に改宗し、誓願を立てその清めの期間が終わった人物が神殿で供え物をささげようとしたので、パウロはパリサイ人として助けようとしたのです。当然のことでした。しかしパウロに妬みを抱く人々は何とかして彼を陥れようとの頭がありますから、すべてのことを誤解し悪い方悪い方へと解釈し、遂にパウロを捕らえ、彼らは「パウロを殺せ」とエルサレム中が混乱に陥ったのです。上の言葉はその時の言葉です。

キリストを信じることによって誤解を受けることもあるかも知れません。すべてのことが明らかになるためです。しかしパウロはイエス・キリストとの出会い、神たるキリストとの出会いをここでも大胆に語ります。それこそが彼の確信だったからです。生ける神様との出会いをした人はどんな場合もひるみません。作り話ではないからです。あなたを強くするのは神様であるイエス・キリストとの出会いです。キリストとの出会いに餓え渇きましょう。聖書を通し、聖霊様の不思議を通して語りかけられる神様の御声に敏感になりましょう。あなたにも主が語って下さる事を信じ、それを受け取りましょう。ヒデ

キリストを信じることによって誤解を受けることもあるかもしれません。

それどころか昔の人は迫害を受け、その命さえ奪われました。
それを思うと、今、この地に生きる私はなんと幸せなことでしょう。

それなのに私は自分がクリスチャンであると言いだせないことの方が多いのです。

こんな未熟な人間がクリスチャンなのか?

クリスチャンのくせにあんなことをして、

とか自分の生活に恥じることが多すぎて隠れキリシタンになっています。

いつか堂々と胸を張って『私はクリスチャンです!』と言える日が来ますように。

2012年2月 7日 (火)

デボーションメール20120207

■ヨブ15:4ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。15:5それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。15:6あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。

★ヨブの友であるエリファズの2周目の発言です。ヨブを慰めたいとの動機から外れ、いつの間にかヨブへの説得、そればかりか「信仰を捨て、神に祈ることをやめている」と、ヨブの反論の言葉さえも口封じするような有様です。他者を理解しようとする人は自分のプライドは脇に置かなければなりません。憐れみと慈しみは同居できますが、おごりとは一つになれません。

人は試練の中にある人に対して、ともすれば高慢になりがちです。

したり顔でものを言いそうです。

 

■使徒19:2「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。19:3「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです」と答えた。19:4そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。19:5これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。19:6パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。

★キリストを信じた人々が受けるべき聖霊のバプテスマについてパウロがここで紹介します。人は悔い改めと共に、聖霊が私たちの心の内に住んでくださり、永遠のいのちの救いに与ります。しかし賜物の表れは違いますが聖霊のバプテスマを受けることを通して人は上から力が着せられます。待ち望むべき、歓迎すべき、認めるべき聖霊様の存在があります。このバプテスマを受ける時、人はキリストを大胆に証しする証人へと変えられます。なぜなら霊が現実にキリストと出会った者となるのですから。ヒデ

精霊のバプテスマを受ける、ということは、霊が現実にキリストと出会った者となるということ。
キリストを大胆に証しする人となると書かれたいます。
精霊が彼らに臨まれ、異言を語ったり預言をしたりした、とありますが、
これは必ずしも全てのひとにおこることではないようです。

異言を語る場合もあればそうでない場合もあるそうです。

2012年2月 6日 (月)

デボーションメール20120206

■使徒17:24この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。17:25また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。17:26神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。17:27これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。17:28私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。

★聖書の中で人と神様と世界の関係がこれほどシンプルに分かりやすく紹介されている箇所はないでしょう。その上で、霊なる神様の中に生きながら、神様を閉め出しているのは人間の心以外にありません。聖書はそれを罪、高慢と呼びます。あるべきお方をあるべき所にお迎えしていないのです。ゆえに祝福といのちが流れません。心の中でキリストを主と崇めましょう。

あたかも人の手で作られた巣箱に鳥が飛んで来て住みつくように、
神様が人の手によって造られた宮に入って住まれるとは思えません。
私は自分の心の中にこそ主の宮を築きたいです。

 

 

■使徒18:24さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。18:25この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

■アポロはヨハネのバプテスマしか知らなかったとはどういう意味でしょう。何か他にバプテスマがあるのでしょうか。あなたはご存じですか。全ての人が知るべきバプテスマがあります。明日それが開かれます。ヒデ

精霊のバプテスマのことでしょうか?

2012年2月 5日 (日)

デボーションメール20120205

■ヨブ11:13もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、……11:15そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。11:16こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。11:17あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。

★ナアマ人ツォファルのヨブへの語りかけですが、どれももっともな事ばかりです。しかしヨブは罪を犯していないのです。潔白なのです。ゆえにヨブの心には届きません。やがて、友である彼らはヨブを高慢なものと定め、その言葉と態度においてヨブを傷つけます。試練の中にある人に対して、説得よりも理解が必要であることをさらに教えられますが、またその困難さをも思います。あなたはヨブの苦悩に何を思いますか。

もしもこの言葉が私に対して発せられた言葉だったら、心に届くのかもしれません。

私はヨブのように潔白ではないし、神様の前に罪深い人間であるから。
試練の中にある人に対して説得よりも理解が必要であるとするなら、

これは本当に困難なことです。

人間は基本的に自分のものさしでしか物事を測れませんから。

 

■使徒16:6それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。16:7こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。16:8それでムシヤを通って、トロアスに下った。

★異邦人伝道のために情熱を注ぐパウロ。にも関わらずアジアで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられるとは。パウロが情熱を傾けていたのは彼の趣味や遊びの為ではありません、主のためでした。一体なにゆえにでしょう。しかしこの出来事をきっかけに、福音はアジアに留まらず、世界の福音へと展開されることになったのです。自らの思いが強すぎて、神様のご計画を暗くしてはなりません。行き詰まりは見方を変えれば神様が下さったチャンス。細き御声を聞き漏らしてはなりません。ヒデ

どんなに理不尽に思えることでも、それが主のおはからいによるものであるとすれば・・・?

自らの思いを捨て主に従う人生でありたいと願います。

2012年2月 4日 (土)

デボーションメール20120204

■ヨブ9:32神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」と申し入れることはできない。9:33私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。9:34神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。9:35そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。

★いわれのない試練の中で、ヨブにとっての一番の苦しみとは何でしょうか。それは彼の無実を理解し弁明してくれる友のないことです。神様がそんなお方であって下さったならと願いますが所詮むりなこと。しかしキリストはまさにその祈りに答えて人となって来て下さいました。聖書は語ります。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」と。あなたは孤独ではありません。

私の犯した罪の弁護をして下さるのがイエス様です。、
天の父なる神様の御前において私が孤独に陥らないのはイエスさまが一緒にいて下さるから。

■使徒13:46そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。

★あなたは既にイエス・キリストの十字架の福音を聞き、それを信じて永遠のいのちを受け取られましたか。ならば感謝。しかし全ての人がそうするわけではありません。中にはせっかく神様がチャンスとしてその人の前に置いてくださった福音、すなわち主の救いを退けてしまう人もあるのです。確実に生かされているのは今この時。次の瞬間何が起こるのかわからなのです。悔いのない決断をしつつ主の前に今日もあゆませて頂きましょう。ヒデ

自分で自分を永遠の命にふさわしくない者と決めることができるほど、

人間は偉大ではありません。

自分自身が頑なに神様を拒んではいないでしょうか?

福音に飢え渇いた者でいよう、

そうすれば神様が私の前に置いて下さった福音を退けることはないと思う。


2012年2月 3日 (金)

デボーションメール20120203

■ヨブ8:20見よ。神は潔白な人を退けない。悪を行う者の手を取らない。8:21ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。8:22あなたを憎む者は恥を見、悪者どもの天幕は、なくなってしまう。

★シュアハ人ビルダデがヨブに語った上の言葉はもっともな言葉です。しかしそれに対するヨブの応答は「まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」と、ビルダデのことばは受け止め切れず慰めにはなりませんでした。ヨブを受け止めようとするよりも、ヨブを分析し何とか変えようとするビルダデ、あなたはここから自己満足な慰め手にならないために何を学びますか。


自己満足な慰め手、実に厳しい言葉です。

他人に対してではなく自分自身に対して自己満足な慰め手になっています。

■使徒12:21定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。12:22そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。12:23するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。

★民を抑圧し自らの出世のために救い主イエス様さえ利用したユダヤの王ヘロデのことを「神の声だ。人間の声ではない」などと、よくも民は言ったものです。いえヘロデが仕掛けて言わせたのかも知れません。それにしても神様に帰すべき栄光を帰すことな、く自ら受け取ろうとしたとき、彼は神様によって打たれ虫にかまれて息を引き取ったのです。侮ってはならない事がここから何であるかを学びましょう。あなたは思うべき限度を超えて思いあがってはいけませんし、また心にもないおだて方をして人を誘惑してもなりません。はいをはい。いいえをいいえとするへつらいのない生き方を全うするためにも神様の助けを求めましょう。ヒデ

神様をもおそれないヘロデに対し、主は死をもって報いられました。

2012年2月 2日 (木)

デボーションメール20120202

■ヨブ5:17ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。5:18は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。5:19神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。5:20ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う。

★テマン人エリファズがヨブに話した言葉です。確かにもっともな話しです。しかし事実は罪がないからこそ、神様がサタンに許可を与えた災いです。人が見ることができるのはどんな場合でも一部分です。ゆえにその人を愛し理解するためにとの視点が大事です。

サタンですら何かするのに神様の許可が必要です。

 

■詩篇108:11神よ。あなたは私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。108:12どうか敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。

★こうしてダビデは言われなく降りかかる試練の時、神様に訴えて自らを支えました。

助けを求めるのは神様に対してのみ。

 

■使徒10:34そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、10:35どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。

★上の言葉はペテロが異邦人イタリヤ隊の百人隊長コルネリオの見た幻を最後まで聞いた結果の言葉です。当時ユダヤ人が異邦人の招きに応じて出かけて行くなど、ありえないことでしたが、ペテロは神様がコルネリオの上になされた導きを、偏見を捨てて聞きいった結果、上の真理が開かれたのです。まずその人を理解しようの動機が新たな世界を開きます。偏見を前提にその人を敵にしてはなりません。ヒデ

私たち日本人も異邦人です。
けれども主は分け隔てすることなく、その御恵にあずからせて下さいます。

2012年2月 1日 (水)

デボーションメール20120201

■使徒8:14さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。8:15ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。8:16彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。8:17ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

★聖霊を受ける。聖霊が下る。との表現に目を留めましょう。聖書は私たちがあずかるべきバプテスマとして、水のバプテスマと聖霊のバプテスマがあることを教えています。水のバプテスマは罪の赦しと、神の子としての立場を揺るぎないものとしますが、聖霊のバプテスマは人に大胆さとキリストを証しするための力を与え与え、その人に与えられた主からの賜物が何かを明らかにします。主はまたルカ11章で譬えを通し、一番よいものとしての聖霊を語られました。聖霊に満たされることにうえ渇きましょう。

私は水のバプテスマを授かりました。これは確かなことです。

けれど、精霊のバプテスマを受けられていません。
キリストを証しする、大胆に主を語ることができません。

いわゆる“隠れキリシタン”のままです。

 

■使徒9:17そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」9:18するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、9:19食事をして元気づいた。

★大いなるもの「サウロ」が、いと小さきもの「パウロ」に変えられた場面です。この直前、彼は天からの光と共に「サウロ、サウロ」と語られる御声によって地に打たれますが、上の「兄弟サウロ」というアナニヤの言葉によって砕かれ赦され主を受けいれまれました。神様がなされることと人のなすべきことは違います。どんな時にも赦しと愛を注ぐことそれが人のなすことです。ヒデ

どんなときにも赦しと愛を注ぎなさい、と主はおっしゃっています。

しかし、どうしても赦すことができず、愛を注ぐ、とは程遠い思いを抱えて私は毎日を生きています。

歩mm党はこの私こそが一番赦していただかなければならない存在なのに、

えらそうに他人を裁いています。

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