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2012年4月 6日 (金)

デボーションメール20120406

■ヨハネ12:24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。12:25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

★死ぬと言うのはジェスチャーではありません。本当に死ぬのです。そのとき人は復活します。すなわち死なくして復活はありません。では「死ぬ」とは、それは決して自害することではありません。誤解しないで下さい。自らの意志によって自分の思いを殺す、明け渡すと言う意味です。このことを為した人のことをクリスチャンと呼びます。クリスチャンは一度「この世のいのち」に死んだので、この世にありながら「復活の命」すなわち「頂いた永遠の命」で生きるものです。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」の通りです。

一粒の麦もし死なずば・・・
こんなタイトルの小説があったような気がします。
子供の頃はこれが聖書のみことばとは知る由もありませんでした。

死ねば豊かな実を結ぶとはどういうことでしょうか?
自分の思いを殺す、明け渡すこと。

この世の命ではなく神様からいただいた復活の命によって生きる、

それがクリスチャンであるというのです。
それはつまり、私がキリストの命によって生かされている?
ここでもただ信じることによってのみ生きると書かれています。

 

 

■ヨハネ13:1さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

★最後の晩餐のはじまりの部分です。明日の朝には捕らえられ十字架につけられることを知りながら、その事を弁えず今なお誰が一番偉いか、誰よりは上かと競い合う弟子たちでした。しかし主はそれを知りつつ弟子たちの足を一人ずつ洗うのです。あなたの罪を洗いきよめることのできるお方は、愛によってご自分の命を捨てた、このお方以外にありません。ヒデ

イエスさまが弟子たちの足を洗っておあげになった。
なぜ、足を洗ってあげることが愛なのでしょうか?
罪を洗い清めること、と解釈してよいのでしょうか?

 

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