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2012年4月21日 (土)

デボーションメール20120421

■創世記22:2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

★祝福として与えた約束の子イサク。しかしあまりの溺愛の為、イサクがアブラハム夫妻にとって祝福となっていないことを見てとった神様は、上のようにイサクを献げよと語られます。神様は愛において盲目になる私たちに聖別を与え、本来の祝福へとかえて下さるお方です。

これはずいぶんな話だ、と思いました。
自分が同じことを神様から言われたら従えるのだろうか?

旧約はずいぶん難しく厳しくこまかいことが書かれているでしょ?
そう言って先生が説明をして下さったことがあったのですが、
旧約聖書を読むとき、
とても自分にはできそうにない、絶対に無理だ、と
絶望的になることが多い私です。



■創世記23:12アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、23:13その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」

★妻サラが召された時のアブラハムの態度です。偉大な族長アブラハムゆえにヘテ人は、どうぞお好きな所を自由に墓地として使って下さいと語ります。しかしアブラハムは相当な代価を払いました。信仰がいつの間にか他者の尊厳を尊ぶ畏敬の念を忘れ、甘えになったとしたら……。恐いことです。

信仰が甘えになることがあるとすれば・・・?
私は知っている人の前ではクリスチャンだと言えない隠れキリシタンです。
それなのに、外出した駅で見知らぬ人から声をかけられた時は、
(宗教の勧誘、というわけではなかったのです。)
少し、話を聞くことは聞いたのですが、
「ごめんなさい、私はクリスチャンです。
貴女はとてもいいお話をして下さるのですが、
これ以上はお伺いしても聞いている振りにしかならないと思います。」
と言って逃げました。
これも、ある意味、甘え・・・かな?



■創世記24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

★イサクのお嫁さん探しを申し付けられた最年長の僕の考えです。愛を土台とした価値観はどんな時代にもそこに立つ人を幸せにします。ヒデ

愛がなければ、真の幸福感は得られないというのは、
人間の永遠のテーマです。
愛を食べて生きていけるか!
というセリフを聞いたことがありますが、

「ではあなたは愛を食べたことがあるのですか?」
と言い返してやりたいと思いました。
ちょっと一休さんみたいですけど。

どんなところにも愛の働きがあるのに、
その人は気付いていないだけだと思います。
というか本気でそんなこと思っているんかなあ?
本当はわかっているんじゃないの?
と思う私。

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