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2012年4月

2012年4月30日 (月)

デボーションメール20120430

■創世記46:30イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」

★息子ヨセフと20数年ぶりに再会した父ヤコブのことばです。アブラハム、イサク、ヤコブの神は再会を与える神であり、親子の絆を深め、兄弟の関係の修復のために助けをお与え下さるお方です。しかもこのお方は、ヤコブがエジプトに向かう前、ヤコブに平安を与えようと46:2神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」46:3すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。46:4わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」と励ましてくださるお方です。

主は私を励ましてくれる御方だということを、
今一度、教えられました。

私は主の前に不義なので、

いつも主が私に怒られるのではないかと、

思っている私。

そのくせ、何かあると神様の名前をよんでしまいます。


■創世記47:25すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」

★激しい飢饉の中でエジプト人のいのちを守ったヨセフに対する飢饉が終わったあとのエジプト人の言葉です。ヨセフはこの時「私は、今、あなたがたとあなたがたの土地を買い取って、パロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたへの種がある。これを地に蒔かなければならない。収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四はあなたがたのものとし、畑の種のため、またあなたがたの食糧のため、またあなたがたの家族の者のため、またあなたがたの幼い子どもたちの食糧としなければならない。」と励ましたのです。主の憐れみを受けた者として、ヨセフのように憐れみ深い者でありましょう。ヒデ

日々、主の憐みを受けている私。

私は主の憐みを受ける者でしかない、
と思っていましたが、

こんな私が他に対して、

憐み深い者となれるかもしれないということは、

感謝すべきことです。


2012年4月29日 (日)

デボーションメール20120429

■創世記43:14全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

★最初に子供達がエジプトに食料を買いに行ったあと、本来ならば更に2回、3回と買いに行かなければ、部族の命が保たれない状況にありました。しかし父ヤコブはなかなか末の息子ベニヤミンを同行させる決心が着きません。やっとのことで決心したヤコブの言葉が上の言葉です。「失うときには、失う」と。しかしこの明け渡しを通してまさかシメオン、ベニヤミンのみならず、ヨセフさえも取り返すことになるとは。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ……」の御言葉は、こうした場面でも真実な神様の言葉として働くことに驚きです。


『僕の名前はベンジャミンです、ただし僕には弟がいますが。』
この部分を読むと、ふと

欧米人にはけっこうあたりまえのこのセリフを思い出すことがあります。

それほど聖書が欧米人の中には浸透しているのかな、と思います。

日本人の中にこのセリフの意味がすぐにわかる人が

どれくらいいるのだろう、と思う時、

もっと聖書が日本人の生活の一部になったらいいのにな、と思います。

かくいう私がその代表で、なんと主を排斥した生活を送っていることか。

モグリのクリスチャン、

名ばかりクリスチャン、

隠れキリシタン・・・

■創世記44:16 ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」

★かつてヨセフをエジプトに売ってしまったことを後悔し、その後家族のもとを離れて住んでいたユダの言葉です。彼はかつてのことを単に後悔したのではなく、悔い、かつ改め、シメオンとベニヤミンのことを悔い改めました。

ここでもユダが神様の前に悔い改めのことばを語ります。

悔むだけでは変わらない、改めなければならない。

私は今日より明日は少し、ましになりでしょうか?


■創世記45:8だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

★ヨセフの神様への確信のことばです。「今私がここにこうしてあるのは、あなた方によるのではなく神様による」と。ヨセフはどんなことがあっても自分の人生を神様以外に投げ出すことはしませんでした。さてあなたは。ヒデ

ヨセフが売られてから、どうなることかと思うのですが、
神様を離れさえしなければ、いい。

『その場で祈ればいいんですもの。

修行だとか御経だとかそんな難しいこと必要ないわ。

簡単なことよ。』

そうおっしゃった御婦人、うっとりした、
それでいて自信に満ちあふれたあの輝きは、

しっかりとした信仰に根付いているからなのですね。

2012年4月28日 (土)

デボーションメール20120428

■創世記41:39パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。41:40あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

★自らが見た夢をヨセフに語ったエジプトの王パロ。そのヨセフの夢の解き明かしに、確かに神様を感じます。それが上のパロの言葉となって現れます。一夜のうちに奴隷から宰相という、思いも寄らない展開をもって、神様はヨセフを高く引き上げられたのです。まさに「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(1ペテ5:10)の実現です。あなたをその所で練り上げ、やがて高くされるのは主です。

ヨセフは一奴隷としてエジプトに売られてきました。
きっとこのことが神様の御計画なのだと思いました。
神様はヨセフを用いようとなさっている。



■創世記42:21彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

★飢饉のためカナンの地より食料を買い求めにやってきたヨセフの兄たち。まさか自分たちがかつてエジプトに売ったヨセフが、今や宰相となって穀物の販売の一切を取り仕切っているとは。それを知らない兄たちですが、ヨセフから「あなた方は間者だ」と言われたとき、上のように語るのです。兄弟どうし、それぞれ今までヨセフのことを言葉に出すことはなかったでしょう。しかし重荷としてずっと心の内に抱えていたのです。さて神様はのその重荷をどのように取り除いて下さり、かつイスラエルを救われるのでしょう。明日に続きます。ヒデ

神様は罰をあてるなんてそーんなケチな御方ではありません、

と高らかに言い放った御婦人のことを思い出しました。
ヨセフのお兄さんたちはそれぞれに後悔の念を禁じ得なかったのです。
とすると、なんか少しほっとしました。

こんなことをしておいて、全く苦しまないとしたらその方が悲しいです。

2012年4月27日 (金)

デボーションメール20120427

■創世記38:1そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。

★ユダも、父ヤコブのヨセフへの溺愛を妬み、空の井戸にヨセフを放り込んだ一人ですが、他の兄弟達が殺そうと行ったとき、それよりもエジプトに向かう商隊にヨセフを売り渡そうと提案します。父のもとには「獣にかき殺されたのでは」と、引き裂き羊の血を塗ったヨセフの衣を示しますが、そののち上の御言葉の通り、ユダは父と他の兄弟の元を離れ天幕を張ります。父の悲しむ姿を見る度に良心の責めを感じ、共にいることが出来なかったのでしょう。罪は人を孤独にし、孤立化させるという真理がここに浮き上がります。

ユダがヨセフの命を救ったのは、自分のため?
自ら手をくだすよりはましと思ったから?
これって、ユダは優しいのかな、と思ったんですが、
ある意味、卑怯なんだろうな、って思いました。
まさに、私もそういう人間だから。



■創世記39:2主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

★この章には「主がヨセフとともにおられたので」が2回記されます。ポテパルの家の僕とされた時と投獄された時です。共通点はどちらも濡れ衣のためです。果たして主がヨセフと共におられたのでしょうか。もちろんです。しかしそれ以上に忘れてはならない事は、ヨセフが主と共にあったのです。主は必ずあなたといつも共にいて下さいます。あなたはどうでしょう。

私が気づいていようといまいと、
誰が信じようと信じまいと、
主が私に寄り添ってくださっている真実は変わりません。
主がともにいて下さると思わなければ、
ここまでこれませんでした。
けれど、私の心は時々主を離れます。
都合のいい時だけ主に寄りそうのです。



■創世記40:8ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

★のちにパロが見た夢を解き明かすことを通して、奴隷らか一夜のうちに宰相に召し出されるヨセフ。唯一濡れ衣を晴らせる献酌官長から忘れられる悔しいところも通ります。しかし神様は夢見る者にその将来を託します。あなたは主にある者として、どんな夢を将来に見ますか。それとも無いものを数え呟くでしょうか。ヒデ

主にある者としてみる夢、
天国に召していただくこと。


2012年4月26日 (木)

デボーションメール20120426

■創世記35:3そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

★降りかかった災いを通して、かつて神様と約束した地へと、出で立つことになったヤコブ。そのことを通して部族全体に聖別が与えられることに。あなたは留まるべき所でない所に留まっていることはありませんか。御使いが天より上り下りし、あなたに語り、あなたを助けるその所であゆむ人は幸いです。


私が留まるべきところはどこでしょう?
いつも神様が私に働きかけて下さっているところ。
ヤコブは約束の地に向けて旅立ちましたが、
私も霊的な旅立ちをしました。


■創世記36:6エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。

★兄エソウの弟ヤコブへの思いやりを感じます。エソウは争うことなくヤコブにカナンの地を譲るのです。そんなエソウをヤコブ同様、神様は覚えておられます。あなたはゆずれる人ですか。押しのける人ですか。多くの人の隠れた善意によって今日ある恵みを感謝しましょう。

神様に感謝するだけでなく、
周囲の方々にも感謝。
助けていただき、ゆるしてもらいながら
ここまで来させていただきました。
有難うのことばを伝えたい。
有難うと言えてない、
また、して下さったことに
気づいてさえいないこともあると思います。
神様が配して下さった方々、
神様のその御恵みに感謝を。



■創世記37:3イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。

★エジプトで宰相となったヨセフ物語の始まりです。イスラエルとなった父ヤコブのヨセフへの溺愛が他の兄弟たちに憎しみをもたらし、家族に思わぬ災いをもたらします。どこまでも神様の恵みと憐れみなくしては、どうにもならない自分の姿とだぶります。完全なのでイスラエルとされたヤコブなのか。そうではなく神様の選びと恵みによってイスラエルとされるヤコブなのか。なお完成に向けたヤコブの人生は続きます。ヒデ

年寄り子、ときどき母がくちにします。

年寄り子だから可愛いのよね、
年寄り子だから甘やかされている、
いい意味に使われない場合も多いようです。
ヤコブもやっぱりヨセフを溺愛したんですね、
たくさん子供がいるとえこひいきするんでしょうか?

私には二人、娘がいますが、

一度づつくらい、
お母さんは○○ちゃん(姉妹の名前)の方が可愛いんでしょ!
なんてことを言われたかなあ。
ば・か・も・の、
あんたたちはそれぞれ違う人間で違う性格だから
愛情の現れ方もちがうんだ、

今は貴女に腹をたててるから
その分ちょっとにくたらしいと思ってるかも。
でも、しばらくしたら忘れる。

多分、本人は本気で言ってません。
それがわかるので、
言っていいことと悪いことがあると
知ってもらいたいです。

まるで自分をみているようだと思うこともしょっちゅうで、
いやなとこばっかり似たねえ、
としみじみ語ると
あたりまえ、おかあさんの娘やから、
と、ぼそぼそ。

2012年4月25日 (水)

デボーションメール20120425

■創世記32:27その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

★いよいよ兄エソウの待つ生まれ故郷に向かうヤコブ。どれほどの財を蓄えたかを誇り、僕の数の多さでエソウを威圧し、その口を塞ごうとします。しかしエソウは、昔から変わらないそのヤコブの横柄さに触れ激怒し、迎え撃とうと備えます。恐れたヤコブは、どんなことが起こっても自分は助かるようにと、自らを隊列の一番最後としますが、不安を拭うことができません。そんなヤコブに主が触れられ、はじめて自分の口で「ヤコブ」、「私は押しのけるものです」と彼は語るのです。自我の砕きです。ここからヤコブの生涯がイスラエル(神の皇太子)のそれへと変えられます。あなたは自分の横柄さ罪深さを素直に認めることができますか。

自分の心の中ではなんとなくわかっていても、
それを神様の前にさらけ出すことは勇気を必要とする。
罪をぼかしてしまう。
神様はわかっていらっしゃるのに、
そのことを知りながら
なぜごまかそうとするのだろう、私は。



■創世記33:3ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。33:4エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。

★砕かれたヤコブは隊列の先頭に立ち、エソウの前に遜ります。変えられたヤコブです。それを受けたエソウの姿が上の御言葉です。エソウのわだかまりがヤコブの遜りによって取り除かれました。仲のよい兄弟の姿はいつの時代も麗しいものです。

相手の命さえ奪おうとするほどの深い深い憎しみがあったはずなのに、
これが兄弟というものでしょうか?
それとも、兄弟でなくとも一方がこのように遜れば
他方の心もとけるものなのだろうか?
うん、とけると思う。
その上、この二人は兄弟なのだ。
兄弟姉妹は仲良くて当然、
ふだんは喧嘩していてもいさとなれば結束する、
それが兄弟姉妹かなあと思っている私。



■創世記34:2すると、その土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕らえ、これと寝てはずかしめた。

★本来留まるべき所でない所に留まったヤコブ家族に災いが。ヤコブの娘ディナが先住民の族長の息子によって辱められたのです。怒りに駆られたヤコブの息子たちは男たちを皆殺しに。しかし周りの部族の憎まれ、結局その地に留まることができず、出で立ちます。ヤコブに対する神様の憐れみ、配剤を感じます。ヒデ

これは女性のはしくれとして耐えがたい屈辱、
まずはそう思ってしまいます。
いくら気にいったからと言ってもあんまりなことで、
デナの人格が完全に無視されているじゃない、
と思う私。
ときどき、女性の人権ってなんだろうな、
とそのほうにばかり気がいってしまいます。

結果、恐ろしいことが起き、
ヤコブはこの地を去るのですね。
これも神様の御配慮なのでしょうか。



2012年4月24日 (火)

デボーションメール20120424

■創世記30:1ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」

★ヤコブの妻となったルベン伯父さんの娘たちレアとラケル。いつのまにか夫不在の戦いが。本来子供は、夫と共に神様の恵みを感謝し、将来のために、更に心を合わせて祈る機会を与え、夫婦の絆を深めるもの。ところがレアとラケルは子供も夫もそっちのけで、自分たち二人だけに関心を向けさせられ、醜い女の戦いを展開させます。

では本来リーダーシップをとるべき夫ヤコブもアダムの子孫として、問題解決のために行動するかというならそうではなく、無関心を装い、むしろ不正をしてもルベン叔父さんの家畜よりも自分の家畜の数を増やそうと功績主義に走ります。神様の選びのヤコブファミリー、しかし確かにおかしいです。さて神様はこの家族をどのように祝福を受け継ぐ基となさるのでしょう。これからの展開が楽しみです。

子供を授かるということの意味について探られた思いです。



■創世記31:53どうかアブラハムの神、ナホルの神─彼らの父祖の神─が、われわれの間をさばかれますように。」ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。31:55翌朝早く、ラバンは子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の家へ帰った。

★生まれ故郷に帰ろうとするヤコブ。そこに恨み辛みの思いが違いに残るヤコブと伯父ラバン。しかし神様は別れの際に互いに祝福し合えるように恵みをもって導きます。ラバンへの「私はあなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ』と言われた。」とは、まさに隠れたところで働く神様の恵み。この恵みに支えられ今日も生かされているお互いです。ヒデ

神様の御恵みはそうとわからないことが多いと言われました。

では、どんなことも全てが神様の御恵みと受け止め、
そこに神様のどんな思いが働いているかを考えたいです。

2012年4月23日 (月)

デボーションメール20120423

■創世記27:13 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

★夫イサクが長男エソウを祝福すると語ったとき、妻リベカは次男ヤコブにその祝福を受けさせようと策略します。恐れを抱くヤコブに母が語った言葉が上の言葉です。家族が一つでないこと、これこそが呪いを世に生み出す苗床です。目指す目標は正しくても、間違った方法でそれを得ようとすると、憎しみが憎しみを呼びます。まず一つとなれる様にお祈りしましょう。

家族の思いが一致しないことは多々あるのかもしれません。
それぞれがお互いの理解を深める努力をしているのか、
父親のもと、一致団結なのか、
少し我慢したり少し無理をして、
それでも結果的に和を保っていたのでしょうか?
今から思えば私はこれといった不満もなく、ぬくぬくと…、

いわゆる温床で育ったような気がします。
神様の御恵みに護られ続けてこの歳になりました。



■創世記28:15見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

★兄エソウの怒りを避けて、母の生まれ故郷に逃げようとするヤコブが途中、荒野で見た夢です。ただ驚くべきは「神様の選び」。神様がヤコブを祝福すると宣言なさったのです。そこにはその祝福を受け取るに相応しい者に練り上げて下さる計画もセットです。その恵みの中で彼は、ヤコブ(押しのける者)からイスラエル(神様の皇太子)へと、呼ばれるに相応しく整えられるのです。あなたもその為に神様によって選ばれ召し出されました。

あなたを捨てない、とここでも神様はおっしゃって下さっています。
祝福を受け取るに相応しい者とは、自分が全く及ばない存在に思えます。

■創世記29:25朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」

★母リベカの生まれ故郷の叔父さんの家に養われることになったヤコブ。ことの次第を知って受け入れられたヤコブですが、ラバン叔父さんにだまされます。人はこうした形をもっても蒔いたものを刈り取るのですね。心砕かれ、悪から離れ、遜った人生を歩む人は幸いです。ヒデ

母リベカの指示通り兄を出し抜いたヤコブも、
それからあのダビデ王も、
蒔いたものを刈り取らなければなりませんでした。

私も自分の蒔いたものを刈り取らなくてはなりません。

そこにどんな赦しがあったとしても、
蒔いたものは刈り取らなければならない。

2012年4月22日 (日)

デボーションメール20120422

■創世記25:28イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

★この後イサクとリベカの二人の息子エソウとヤコブの間には悲しい溝が生まれてしまいます。二人の息子の個性の違いを喜び、それを肯定的に評価していたならば……。しかしそれが出来ないことが人間の性、罪深さです。その結果をこのイサク・ファミリーはこれから刈り取って行くことに。しかしその中にも神様の憐れみの御手は鮮やかで、かつこの家庭から離れることはありません。自らの内に巣くう原罪、罪深さに涙し神様に憐れみを求める人は幸いです。しかし現実、多くの人は、その強さの中で、立ち止まることなく押し切って行ってしまうのです。残念です。

原罪
私が子供の頃に三浦綾子さんの“氷点”がドラマ化されていたようです。
私自身は見たことありませんが、島田陽子さんという女優さんが
出ていた記憶があります。
学生時代に原作を読みました。
そして、それから何年も経って、
この小説が原罪に題材を取ったものだと知りました。
自分はそれも分からずに読んだのだと思いました。
「犯した覚えのない罪をなぜ負わなくてはいけないのか」
と不快そうにヒトが言うのを聞いた時、
そう思うんだろうな、と私は思いました。
私が原罪について何か言っても
かえって誤解を招くだけで
聖書に書かれてある真実を伝えることは無理だと思いました。
あれからもう数年が経ってしまったけれど、

まだ自分の心の中でもよくわからないままです。


■創世記26:6イサクがゲラルに住んでいるとき、26:7その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。

★あらあら不思議、どこかで同じような話を聞いたことがありませんか。そう、イサクの父であるアブラハムが、自己保身のためにエジプトに下るとき(12:11-)と、ゲラルの王アビメレク(20:2)前で妻サラのことを妹と偽った態度と同じです。罪は侮るべきではありません。家系の人格的弱さ、罪深さは残念ながら、こうした形となって流れます。流される愛に偽りが混じり込んでいるからです。だから救いが必要なのです。蒔かれた家系の呪いをせき止め、祝福の命を流すためにキリストはあなたのために十字架の上で命を捨てて下さいました。さあ躊躇するこの愛の中に飛び込み、キリストの愛と血潮によって洗い清めて頂くのです。ヒデ

私はいつも自己保身することばかり考えているなあ、
と本当にそう思います。

自分の身を自分で護りたいのなら、
それこそ神様を頼るべきなのだ、という思いがあります。

私は最終的には自分が決断して、教会の門をたたいたのですが、
その時もちょっとした後押しがあったのは事実です。

それはとりもなおさず、神様がその気にさせて下さった、
ということです。
煮え切らない私にノンクリスチャンの人が教会へ行ったら、
とすすめてくれたのも不思議な感じがします。


2012年4月21日 (土)

デボーションメール20120421

■創世記22:2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

★祝福として与えた約束の子イサク。しかしあまりの溺愛の為、イサクがアブラハム夫妻にとって祝福となっていないことを見てとった神様は、上のようにイサクを献げよと語られます。神様は愛において盲目になる私たちに聖別を与え、本来の祝福へとかえて下さるお方です。

これはずいぶんな話だ、と思いました。
自分が同じことを神様から言われたら従えるのだろうか?

旧約はずいぶん難しく厳しくこまかいことが書かれているでしょ?
そう言って先生が説明をして下さったことがあったのですが、
旧約聖書を読むとき、
とても自分にはできそうにない、絶対に無理だ、と
絶望的になることが多い私です。



■創世記23:12アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、23:13その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」

★妻サラが召された時のアブラハムの態度です。偉大な族長アブラハムゆえにヘテ人は、どうぞお好きな所を自由に墓地として使って下さいと語ります。しかしアブラハムは相当な代価を払いました。信仰がいつの間にか他者の尊厳を尊ぶ畏敬の念を忘れ、甘えになったとしたら……。恐いことです。

信仰が甘えになることがあるとすれば・・・?
私は知っている人の前ではクリスチャンだと言えない隠れキリシタンです。
それなのに、外出した駅で見知らぬ人から声をかけられた時は、
(宗教の勧誘、というわけではなかったのです。)
少し、話を聞くことは聞いたのですが、
「ごめんなさい、私はクリスチャンです。
貴女はとてもいいお話をして下さるのですが、
これ以上はお伺いしても聞いている振りにしかならないと思います。」
と言って逃げました。
これも、ある意味、甘え・・・かな?



■創世記24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

★イサクのお嫁さん探しを申し付けられた最年長の僕の考えです。愛を土台とした価値観はどんな時代にもそこに立つ人を幸せにします。ヒデ

愛がなければ、真の幸福感は得られないというのは、
人間の永遠のテーマです。
愛を食べて生きていけるか!
というセリフを聞いたことがありますが、

「ではあなたは愛を食べたことがあるのですか?」
と言い返してやりたいと思いました。
ちょっと一休さんみたいですけど。

どんなところにも愛の働きがあるのに、
その人は気付いていないだけだと思います。
というか本気でそんなこと思っているんかなあ?
本当はわかっているんじゃないの?
と思う私。

2012年4月20日 (金)

デボーションメール20120420

■創世記19:17彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

★そこに住む人々の罪と不品行のためソドムとゴモラが滅ぼされようとする時、御使いはアブラハムの甥ロト一家を救おうと、彼らの前にあらわれ、上の御言葉のように語ります。しかしロトの妻は振り返り塩の柱となりました。なぜ彼女は振り返ったのでしょう。神の言葉によって生きるか、欲に動かされて生きるか問われます。

本当に、何故振り返ったんでしょう、彼女は?
町が滅ぼされようとしているんですよ、
他の時じゃないのに、
生きるか死ぬかの一大事なのに。


■創世記20:11アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。20:12また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。

★自己保身から同じ失敗を繰り返すアブラハム。この時も妻サラのことを妹と語り、妻サラを犠牲にして、ゲラルの王アビメレクの前を切り抜けようとします。神様は繰り返される失敗、惨めさの中で人に霊的渇きを起こし、また罪深さに気づきを与えようとなさいます。人から言い分けが止み、神様の憐れみをその人が求め始めるとき、それが癒やしの始まりです。

■創世記21:1主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。21:2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

★アブラハムとサラとの間に交わした約束に忠実な主は、アブラハムの子孫であるあなたにたいしても忠実なお方です。主はご自身が声を掛けられたあなたを決して忘れてはいません。それは今日一日もです。ヒデ

私は、神様に声をかけていただいたらしいのです。

きちんと返事したのでしょうか?

神様が私との約束を憶えて下さっているのに、
私が忘れてしまっているのです。



友達に言いわけ、
家族に言いわけ、
自分自身に言いわけ、
神様に言いわけ…


2012年4月19日 (木)

デボーションメール20120419

■創世記16:2サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

★「たぶん」に表されたサライの内面。それは確信のなさです。確信がないのにアブラムに女奴隷を与えようとするその動機は「欲」です。子のないサライの辛い気持ちは誰にも分かりません。それでも欲がはらむと罪となるので、聖書は間違ってはならないと警告します。

サライのこれが「欲」だとしたら、私のは「欲」を越えてしまっている。



■創世記17:1アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

★アブラム夫妻が不信仰の罪を犯してから13年間神様は沈黙を保たれます。そして今この時全能者としてご自身を示されます。神様が下さる恵みは余りに大きく信じがたいゆえに、人は時に受け取り損ねます。それでも与えたいと願われる主の思いがこの形となりました。捨てられたと思えるときも、主は決してあなたを捨てることはなさいません。神様の御声に注意深くなるのです。そして語られたら、信じてそれを受け取るのです。あなたに語られるそのお方は全能者です。

主はけっして私のような者をも捨てることはなさらない、とすれば
主がお捨てになったのは御子イエス様だけなのかもしれない。



■創世記18:14主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

★旅人と思い彼らを親切にもてなすアブラム。しかしそれは人ではく、祝福するためサラに触れようとした主でした。祝福を与えるために主は思わぬ形であなたの前に姿を現されるお方。表面ではなく、目に見えないものを見る、砕かれた心が問われます。ヒデ

そういえば主におできにならないことが実はいくつかある、

と先生がおっしゃっていました。

その一つが、確か『見捨てること』だったような気がします。

なぜ私は憶えていないのだろう?

主に、いえ、主であられるからこそ
おできにならないこと。

主はいつも私に助け手を送って下さっています。
偶然を装って。
偶然、
happeningはhappyと同じ語源、神様からの祝福。

2012年4月18日 (水)

デボーションメール20120418

■創世記12:1主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

★主は祝福の基としたいあなたにも語られるお方。祝福を受け取る秘訣は信仰と従順です。アブラムは主に条件を何一つ付けず、約束の地を見ずして出で立ちました。今の落ち着いた生活にピリオドを打ったのです。

祝福を受け取る秘訣は信仰と従順。
祝福がほしいからなのか、信仰と従順の結果が祝福なのか、
私はどっちなんだろう?
答・・・両方です。でも、本当はよく考えたら祝福をほしいだけ、
という気もします。
それはいけないことなんだろうか?
ただ神様の御名前をよんで、神様をほめたたえて賛美する、
何も考えずにそうしようと思うのですが、
心の中にそうすれば祝福していただける、
救っていただける、癒していただける、
という気持ちがあります。
見返りを期待する私はさもしい人間です。


■創世記13:14ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。13:15わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

★神様から祝福を受け取るファーストステップは分離です。神様以外によって祝福を受けたと私たちが言わないためです。次のステップは最初のステップをクリアーした後語られます。

私に祝福を下さることができるのは神様だけ、忘れないように。


■創世記14:22しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神主に誓う。14:23糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。

★甥ロトの為に連合を組んで勝利した後のアブラムの言葉です。13章で学んだ霊的ステップを彼はここで生かします。心の軸が定まっているかが問われます。

アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。
アブラムを富ませたのは主です。


■創世記15:2そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

★神様に従うアブラム、迷いがないわけではありません。あなたと同じです。迷いの中で何を見、何を信頼するかが問われます。ヒデ

迷った時はもう考えません。
ひたすら祈ります。
あとは神様の声を聞くだけ。
心を静めて静めて・・・
あわてず急がず、です。
本当に聞こえるんです。

2012年4月17日 (火)

デボーションメール20120417

■創世記8:15そこで、神はノアに告げて仰せられた。8:「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。

★箱舟を造り、入る時も神様の指示に従ったノア。出るときは一日も早く飛び出したいものですが、彼は出るときも神様の指示を待ちました。ここにすべてのことにおける従順があります。

私は子供の頃から指示待ち人間だと言われていました。
けっしてよい意味で言われていたのではありません。

今でも自分にそういうところがあることはよくわかっています。
けれど、あの人がそう言ったから…、と言い訳するのはいやです。
その人の指示に従うことを選択したのは自分自身だからです。
否応なく従わなければならないのなら、
それは自分が「いやと言えない」、
それだけの人間にすぎないということです。
神様に従うというのはそこに、いやいや、とか、しかたなく、
ということではないということは私にもわかります。
神様に対してはただ心を静めて、指示待ち人間でありたいと思います。


■創世記9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。

★これが神様が人との契約の印として下さった虹の意味です。虹を見たとき信仰を持って感謝しましょう。願いに更にまさる祝福をあなたの為に備えて下さる神様がおられます。

雨上がりによく見られる虹のことでしょうか?
地上にいる私には半円形の虹しか見えません。
虹は本来完全な円形だそうですが、神様は半分だけ見せて下さっています。
まあ、そんなことはどうでもいいのですが、
神様は私が願うよりもっとよくして下さっているのは確かだと思っています。

■創世記10:1これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。

★試練の中を従順をもって耐え抜いたノアに神様は祝福を備えておられました。あなたのためにも神様はそなえておられます。何でしょう。今は分からなくても、やがてあなたは驚き、どうしてここまで私を顧み、祝福して下さるのですかと言うことになるでしょう。

日常生活の様々の営み、偶然を装った神様からのプレゼント。
偶然こそが神様の恵です。

■創世記11:4そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

★神様に触れさせたくない。私の人生。これがバベルの塔の建設の動機です。たとえ再び洪水が起こっても滅びないように。神様への従順を受け継ぐことの難しさを覚えます。そしてこの後アブラムの生涯が。従順とは何かが開かれます。ヒデ

バベルの塔、といえば巨匠
ブリューゲルの絵が思い浮かびます。
どんなに高く積み上げたとしても、
神様はそれよりもっと高いところにいらっしゃるように思えます。
神様の御力をもってすれば、
どんな頑丈な摩天楼も一瞬にしてがれきとなってしまうでしょう。
それどころか痕跡さえ残さず塵にしてしまわれることも可能でしょう。
なんでアブラムはそれがわからなかったんだろう?

2012年4月16日 (月)

デボーションメール20120416

■創世記4:9主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

★神様との交わりのために造られたアダムとエバの長男カインの言葉です。関係・つながり中心の価値観に生きることを願われた神様の御心に対して、罪は人を功績中心の価値観へと誘いました。功績中心は人を殺し、自分を生かすこともできません。

先日の祈祷会のとき、
様がアベルの供え物を顧みられたのにカインのそれを顧みられなかったのか、
というお話が出ました。
カイン地を耕す人で、アベルは狩りをする人です。
なぜそれぞれそのように定められたのでしょうか?
私の嫁ぎ先は農家です。
りはしませんが、毎年穀物を作ってお米を出荷しています。
家はカインの子孫なんだろうか?
ふと思いました。

■創世

★誰を産み、何年生きたのか。アダムの子孫の系譜です。しかし最後はみな「死んだ。」で締めくくられます。人に必ず訪れる死。この死に向かってよき備えをする人は幸いです。

死に向かって、蟻のようにせっせと蓄える、
天国への積立。
私は蟻でありたい、せっせと蓄えたいのですが、どうでしょうか?

■創世記6:18しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。

★神様がノアに語られた言葉で、これはまた5章の死に対する答えでもあります。箱舟に入りなさい。かつてノアは自分でそれを造りました。しかしあなたの為にはキリストが十字架の救いという箱舟を備えて下さいました。家族と一緒に入りましょう。

そうでした、私は汗水たらして箱舟を造らなくてもよかったのでした。
私だけでなく、家族もともに救われたいものです。
実家の母を教会に誘ってみました。
駅から歩けたら一緒に行けるのにね・・・、
でも母は、教会は敷居が高くて、と言いました。
世間にありがちな教会への認識だと思いました。
伝道って無理強いできないし、その人をつまずかせてしまったら、
何にもなりません。
ただ教会って何?と聞かれたら少しくらいは説明できる自分でありたい。

■創世記7:16入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

★世の不義に対し、「主よいつまでですか」と嘆く人がありますか。信頼しましょう。正しい裁きの為に必ず立ち上がられる神様がおられます。ヒデ

いつまでたっても不義はなくならず、自分がその筆頭にたっていると思うと、
なぜ自分はこうなんだろかと嘆かわしい気持ちになります。

2012年4月15日 (日)

デボーションメール20120415

一年掛けて取り組んできたファーストステップデイリープランによる聖書通読が昨日完了しました。新たに今日からヒストリカル通読プランを用いて今年度も聖書通読にチャレンジします。この通読をご一緒して頂けますと一年で完全に聖書を一度通読できます。可能な方は、この配信メールに目を通して頂くのみならず、実際に聖書の通読にチャレンジなさってみて下さい。このプランの特長は完全とまでは行かないものの、それぞれの聖書の書を古い順に通読することです。ゆえに新約に入ってからは福音書が最初ではなく、手紙からスタートして行きます。このプランを用いることを通して、きっとあなたは今まで見落としていた真理に目が開かれる経験をなさることでしょう。祝福をお祈りします。

20120415_創世記1-3

■創世記1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

★あなたのを創造し、内に命を注がれたのは主です。そして造られた目的は祝福のためです。恐れなく神様に近づきましょう。主はあなたの生涯を完成して下さいます。

私は主により創られました。
そこには自分の意志はなく、また産んでくれた両親の思いが入ることもありません。
性の決定権もなく、いつ産まれるのか、寿命が何年あるかもわかりません。
親も子もお互いを選べませんし、
兄弟姉妹も電車の中で偶然隣り合わせに座った人のようなものです。
ただ主の御心だけが働いています。


■創世記2:18神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

★人が罪を犯す前の僅かの記述の中で唯一よくないことが語られます。一人でいることです。あなたの内にある凸凹。それは欠点ではなく、つながり合うために与えられた個性です。偽りの価値観、功績主義に支配されませんように。

人は一人では生きられない、といいますし、真理だと思います。

所詮、人は一人では生きられないと思っています。
私なんぞは最初から人を頼ることばかり考えています。
それが、実は神様を頼ることだとなんとなく思っていました。
若草物語に、神様に祈ってばかりで自分は何もしない母親が登場します。
確かに、
その母親も、できることはすべきかなと思うのですが、
ある人物が援助を申し出ます。
何もしない母親が、
その人をそういう気持ちにさせたのは神様です、
というくだりがあり、幼心にこれは当たっている、
と思ったのを覚えています。
話がそれてしまったけれど、神様が私の周囲に配して下さる人、それぞれ、
配すべくして配されたのだとその意味を考えます。

■創世記3:21神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

★罪を犯した人のために、それを被われるお方。そのお方こそが、あなたを愛しておられる神様です。このお方の愛と真実を受けとりましょう。ヒデ

聖書通読、
今、中断してしまっています。
枕元に聖書を置いて毎日一章づつ読み進めていたのですが、
ちょっとあることがあって中断してしまいました。
ちょっとあること、というのは実に世俗的なつまらないいきさつからで、
深い理由はなく、ただのなまけぐせ、です。

2012年4月14日 (土)

デボーションメール20120414

■黙示録15:1 また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。
■黙示録16:2そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

★結果、人々は悔い改めようともせず神様に対して汚しごとを言い、悔い改めることをしなかったと聖書は鉢の裁きについて7回語ります。聖霊様が地上から取り去られるとは恐ろしいものです。人は謙虚になれず、悔い改めることさえできないとは、まさに今日こそが救いの日です。

今日こそが救いの日?


■黙示録17:14この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」
■黙示録21:27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

★遂に新天新地の完成です。しかしここには「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者」は入ることができないのです。

私はとても入れない・・・と絶望的な気持ちになりました。
では、これから悔い改めよう、などと思っているのです。
自分のあさはかさ、ずるさ、横着さにはもううんざり・・・
悔い改めよう・・・
この繰り返しです。
悔むだけでは物足りない、明日は少しはましになれ、という歌がありましたが、
どんなにのろくても今日より明日、少しはましになりたい。

■黙示録22:12「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

★今日でファーストステップデイリープランの通読を始めてから一年がたちました。明日からhistoricalプランをもって通読にチャレンジします。一年間お付き合いありがとうございました。

私の通う教会の礼拝堂はたいへん立派です。
見上げるとステンドグラスがあり・・・
(私はいつも、ステンドグラス職人だったというジョルジュ・ルオーを思い出す)
ぶどうや麦が描かれています。

そして、アルファとオメガの文字もはめこまれています。

最初、意味がわからなかったのですが、ある時
初めと終わりのことではないだろうか、とふと思いつくことがありました。
今ではこれが聖書の一節にあると知ってはいますが、

こういうことが時々あって、それは黙示録に書かれていることが多い。

2012年4月13日 (金)

デボーションメール20120413

■黙示録14:14また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。14:15すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」

★人のこの様な方とはイエス・キリストです。遂に言われなく虐げられ、いのちを傷つけられた人々が酬われる時が来ます。「主よいつまでですか」との苦しみに終止符が打たれる正しい裁きの時が来るのです。主は「報復は私のすることである」と、人が人を裁きく事を通して裁く人が、自らを神様の立場に置くことを願われませんが、その分ご自身が立ち上がられる時が遂に来たのです。裁きがはじまることはまた、完成の近いことを意味します。その分同じこの14章で語られる「14:6また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。 14:7 彼は大声で言った。『神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。』」を重く受けとめる人は幸いです。ヒデ

黙示録を読むとこわい、と思うのは、
これが過去のことではなくこれから起こることだから?
イエスさまについ書かれてあることは過去に実際に起こったできごと。

もちろんイエス様は私の目に見えないだけで
今この時も、生きて働いていらっしゃることに変わりはありません。

でもこれから再臨の時を迎えるには・・・
あまりに私が罪深い人間だから、

どんな裁きがくだされるのだろうかとびびっている?

それでは悪いことしたらバチがあたるぞ、というのと何にもかわりません。

自分の浅はかさをつくづく思い知らされています。

2012年4月12日 (木)

昨夜の祈祷会

本日は司会のお役目をいただきました。
神様はこのような未熟者をも用いて下さいます、感謝、です。

牧師夫人の書いて下さった次第が見つからない、
少しあせりましたが、神様、皆様のお力により無事に進行、
私がしたのではなくやはり神様のお力です。

聖書の箇所はペテロ第一の手紙第2章4~10節。
教会とは何かについてでした。

教会とはもともと建物ではなく人の集まりを指す、
ということはクリスチャンなら誰でも知っています。

無教会派という派閥があり、教会に行かない人達の集まりだそうです
しかしこれもある意味、無教会派という教会と言えます。

教会の本質とは?
イエス様のもとに集まる一人一人が教会である
教会に集うことによりひとりよがりでない信仰を育てる
信仰と愛の共同体が教会である
(エペソ4:11~16)

教会の目的と使命
礼拝と伝道によりささえられている
それは神様の御命令であると同時に
神様から受けた憐みが我々を突き動かし
礼拝を守り伝道せずにはいられなくなる

霊のいけにえを捧げるとは礼拝を守ることです。
礼拝は信仰の義務であり祝福の源泉です。
賛美、感謝、祈り、喜び

伝道とは暗闇の中からみ光に招きいれて下さった方の御技を語り伝えることです。
そのためにいつでも証しできるように準備をしておきなさい、
と聖書は言っています。(ペテロⅠ3:15)

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デボーションメール20120412

■黙示録5:4巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。5:5すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

★私たちの人生の難問を解き、また目から涙をぬぐって下さるお方は、十字架の上であなたのためにいのちを捨て、罪の贖いを完成し、黄泉より甦って父なる神様の右の座に着かれたイエス・キリスト以外にありません。人の心は一時的なつじつま合わせの解決に往々にして向かうものです。しかしこのお方に心を向けるとき、永遠につながる最善の解決が与えられます。なぜなら神様は、あなたに臨む試練を許されるのみならず、脱出の道も備えて下さるお方だからです。

言われてみれば毎日つじつま合わせの私の人生。
こんな私ですがやはり何か困ったことがあると神様に助けを求めます。
まさに『困った時の神頼み』です。
神様は試練をお与えになり、そのことによって御自身を示されます。
私を忘れないように、と主が微笑んで下さっているように思えます。
イエスさまはいつも優しいのです、私には。
多分、私があまりに弱い人間だから?
そうじゃないよ、って誰かに言ってもらいたいのですが、
でもやっぱり私は、少しの風にも揺らぎ、一筋の煙を残して消えてしまう
ろうそくのような人間です。
だから神様は、ついたてになって下さっています。


■黙示録7:2また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。7:3「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

★何によってあなたが打ち倒されず押し流されないようにと、見えないところであなたを支え、あなたを守る事を使命に任命された御使いがいます。この御使いだけではありません。確かに今日まであなたにゆえない敵意を抱く人物もいたことでしょう。しかしそれにもまさる善意の人々の支えによってあなたは歩んできました。この朝感謝の心を大きくしましょう。そしていつもよりさらに心を込めて「ありがとうございます。」を言い表す一日としませんか。神様祝福をお祈りします。ヒ

黙示録ってなんかこわいんですけど。
これまでわたしはいかに多くの人に、
支えられ、励まされ、そしてゆるしていただきながら人生を歩んできたことでしょう。
感謝、感謝、全てに感謝!
誰かに辛くあたられてその辛さゆえに教会の門をたたいたとすれば、
それも恵なのだと思うとその人にも感謝すべきです。
でも神様に感謝できても、当の御本人にはなかなか有難うとは言えませんね。

同じことで、神様にはごめんなさい、と言えても、

相手の方にはなかなか謝れないこともあります。
また謝りたくても様々な事情からそれが困難な場合もあります。
さて、どうすべきか…

2012年4月11日 (水)

デボーションメール20120411

■黙示録2:10あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

★主は教会の間を歩かれるお方としてあなたに愛と配慮を注いでくださるお方です。では主のあなたに対する評価の基準はなんでしょう。しかもそれは2000年前にマリヤのお腹をかりて受肉なさった時と少しも変わりません。もうお分かりでしょう。忠実です。主は語られます。「あなたは僅かなものに忠実だったので多くのものを託そう。主人と一緒に喜んでくれ」。人との比較ではない、あなたを尊び、あなたを愛するゆえに託したい祝福があるのです。あなたの目は主人に向けられ、あなたの心は主人の心を重んじようとしていますか。

私の目は主にむけられているか?とたずねられると、時々という答えになってしまいます。

自分勝手、時々クリスチャン…
こんな私をそれでも主は尊び愛して下さるというのでしょうか?
主の心を重んじるとは自己中心の思いを捨て去ること。
努力して得られないとすれば、やはり心を空しくするしかない、
そんな気がします。

■黙示録3:12勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

★1ペテ5:10には「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とありますが、上の御言葉と共通しています。忠実を持って主に応答しようとするあなたを永遠の次元において主は尊びたいのです。天の父の心を知り、そこに生きましょう。ヒデ

忠実をもって主に応えたい、
天の父なる神様の御心のままに生きる、
ついつい、頑張ってしまう自分がそこにいます。
でも頑張らないでいると自己中心になってしまいます。
やはり、何かが間違っているのですね。


2012年4月10日 (火)

デボーションメール20120410

■詩篇117:1すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。117:2その恵みは私たちに大きく、主のまことはとこしえに。ハレルヤ。

★一番短い詩篇で、これで全部です。勧められていることは主に誉れを帰すこと。自分にではありません。この秩序の奥義を理解し、そこに生きる時、人は癒され思い煩いから解放されます。

主に誉れを帰す、とはどういう意味なのでしょう?
自分にではなく、主に帰せよとここには書かれています。
何につけ自分が主体になってはいないでしょうか?と省みる自分でありたい。

 

■2ヨハネ1:9だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。

★行き過ぎをせずキリストのうちにとどまりなさいと勧める使徒ヨハネ。要は真理は両極端のどちらかにではなく恵みの中にあると言うことです。人は一方に傾き走りやすいものです。極度の律法主義や正しい知識に基づかない熱心さ等。そこにはそれを助長させようとする目には見えませんがサタンの働きかけもあります。自分の何かの頑張りに信仰が支えられることがありませんように。また敗北主義に支配された惰性に流されるものでありませんように。むしろ恵みによって支えられる生き方の中に命の泉は湧き上がります。

頑張る必要はないのだ、と思いました。

信仰は努力にささえられるものではないのだと知りました。
ただ自然にひたすら神様の御恵みに感謝できる自分でありますように。

心を空しうして、という詞を思います。

 

■3ヨハネ1:2愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

★使徒ヨハネのことばです。同じ思いであなたのことを愛しておられるお方がいます。主です。また森もそう祈ります。あなたは愛されるために主によって息吹きかけられました。主の栄光を反映するために生かされました。あなたには主の期待と信じがたいほどの可能性に満ちています。それを引き出す秘訣は、おごることなくありのまま感謝してです。自分で自分を縛ることのありませんように。ヒデ

私は愛されるために生まれました。
主の栄光を反映するためにこの世に生かされています。
おごることなく、ありのままに感謝せよ。

私は愛され、生かされている…

私はそれを知っています。
知っていると思っています。
けれど、自分は知っているつもりになっているだけだという気もします。

知っているつもり、それが私のおごりなのかもしれません。

2012年4月 9日 (月)

デボーションメール20120409

■1ヨハネ4:9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。4:10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。4:11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

★愛を受けとった者は互いに愛し合うべきと使徒ヨハネは語ります。しかしヨハネがこのように記さなければならない背景に、教会にはそれを留めようとする力が働いていたようです。まさにそれは人の肉性のなせるわざです。さまざまな霊の力が働きます。だからヨハネはすべての霊によって動かされることのないよう、すべての霊を信じるのではなく、それが神様からでたのかどうか試しなさいと語ります。受肉すなわち遜ることを指し示す神様からの霊を信じるのです。

霊がすべて神様からのものではないと知りました。
今更、と言われそうですがほんとうにそうです。
考えてみたら全ての霊が神様からの霊だなどという保証はどこにもありませんでした。

神様からでたのかどうか試しなさい、とは厳しい。

■1ヨハネ5:12御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。5:13私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

★初代教会においても救いの確信を持ち得ない人々があったようです。「果たして私はすでに永遠のいのちを得ているのだろうか」と。それを知る方法です。あなたは既にキリストを心の内に人生の主として迎えていますか。そうであるなら永遠のいのちを持っています。そうでなければ永遠のいのちにあずかれるようにキリストを心の内に迎え入れましょう。キリストはあなたの人生を完成させてくださいます。ヒデ

私は充分に救われています。

それなのに勝手な行動をとり、神様から離れてさまよう時があります。

神様が救いの手を差し伸べて下さっているのに、その手にすがろうとせず、自己の欲望のとりこになっている…、
そんなことを思うことがあります。

2012年4月 8日 (日)

今日はイースターです

イースター、おめでとうございます。

本日の早朝礼拝は先生のこの一声で始まりました。
早朝礼拝に限ってイースター礼拝はベテル園で執り行われます。
受洗してまだ数年の新米クリスチャンの私は、
そうだ、イースターもおめでとうございます、なんだなあ、
と思ったのです。

ここで少しおさらいをしてみます。
イースターは12月25日のクリスマスのように決まっているわけではありません。
定義として
『春分の後の最初の満月の日の次の日曜日』とされています。

一緒に礼拝に出席されたY姉が
今年は桜がまだですね、昨年はもう散ってしまっていたのに・・・。

とおっしゃりながら、

あ、でも去年は遅かったのよね、イースターが。

そうでした、昨年は
おそらく一番遅いイースターであろうと先生がおっしゃっていました。
ちなみに、昨年は4月24日、一昨年は4月4日、そしてその前、
2009年は4月12日です。
私はその日に洗礼を受けさせていただきました。
子供の頃から教会に係わりを持ちながらこんな歳頃になってようやく、
クリスチャンとしての人生が始まりました。

デボーションメール20120408

■ヨハネ20:8そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。20:9彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

★婦人達の報告を聞き、飛び出してキリストの遺体が納めてあった墓に駆けつけたペテロとヨハネ。彼らは空になった墓と、頭に巻いてあった布きれが巻かれたそのまま置かれていたのを確認し、信じたとあります。しかしまだ納得できたわけではありませんでした。あれほど主が十字架に掛かられる前に、自ら十字架にかかっていのちを捨てると語られていたにもかかわらずです。ここから学べる教訓とは?人は霊的納得が与えられなければ、たとえ示される救いについて教理的に訴えかけられても、それを認め心に受けとることはできないと言うことです。神様がお互いの霊の目をお開き下さるように祈りましょう。

霊の目を開いていただき霊的納得が与えられるように、とのことです。
これまで私は納得していたのかもしれませんが、それが霊的であったかどうかはわからないのです。
ただ聖書に書かれてあるのだからこれは本当に起こったことである、とそう思っています。
それを他の人に説明することはできません。
けれど、誰かに尋ねられた時に自分の納得を説明したい、主を否定されたくない、
とそんな思いから教理的に学ぼうとしていたのかもしれません。

 

 

■ヨハネ21:17イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

★大祭司の邸宅の中庭で十字架に掛かられる主のことを「私はその人を知らない」と、主を否定し裏切ったペテロ。そのペテロを復活の主が訪ねて下さった場面です。裁くためではありません赦すためにです。同様に主があなたに話しかけるとき、それは裁くためではなく赦し解放するためです。「あなたはどこにいるのか」とアダムに主が話しかけた時も同様です。その時の応え方によって人生が変わります。恐れる必要はないのです。正直に罪を認め、へりくだって憐れみを求めましょう。ヒデ

自分がやましいと主を恐れる気持ちが起こります。
それは畏敬の念ではなく、怖がる方の恐れです。
よくそんなことをするとバチがあたる、などと言う人がいます。

バチをあてるですって?イエスさまはそんなケチなお方ではありませんよ、

とおっしゃったご婦人がいらしたのですが、本当にそうだと思います。
むしろ主は悲しんでいらっしゃるように思います。

 

だから主は憐れんで下さるのです。
憐れむ、などと言うと、失礼な!とプライドを傷つけられたかのように
思う人もいらっしゃるようですが、
れこそそんなケチな憐れみではありません。
憐みを求めることは決して恥ずかしいことではなく、
主の前にへりくだった美しい姿だと思います。

2012年4月 7日 (土)

デボーションメール20120407

■ヨハネ15:16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

★よく聞かされたことがあります。キリスト者は間違いなく天国に入ることができる。しかし人の心とは、どこかで自分の努力によってそれを勝ち得たとの思いが以外と潜んでいるものだと。しかし天国に入り、門に向かって振り返ったとき、その門には「あなたがたが選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、任命したのです」と書いてあると。そうあなたは自分の努力もさることならが、神様の恵みによって選ばれたのです。ありがたいことです。

天国に入るということ
それは私が天国に入ることを選んだのではなく、
神様が天国に入る者として私を選んで下さったのだということを知りました。
それは私が天国に入れてもらおうとして努力したからではない、と書かれています。

私はなぜ選んでいただけたのでしょう、
なぜ、任命していただけたのでしょうか?

心がけを善くしていたら天国に入れるというものでもないのでしょうか?

 

 

■ヨハネ16:33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

★あなたを世から召し出されたのは主です。ゆえにこのお方はあなたの生涯を責任を持つと語って下さいます。問題は何かあった時、あなたがどこに行くかです。主の元に行きましょう。あなたがささげる信仰の賛美と感謝を用いて、主はあなたの生涯を豊かに飾って下さるお方です。ヒデ

何があっても主を離れてはいけない。
とにかく神様から離れてはいけない。

何かあったら、先ず神様に祈る。

そのために神様は、
御自身を私に思い起こさせるために、

患難をお与えになります。

2012年4月 6日 (金)

デボーションメール20120406

■ヨハネ12:24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。12:25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

★死ぬと言うのはジェスチャーではありません。本当に死ぬのです。そのとき人は復活します。すなわち死なくして復活はありません。では「死ぬ」とは、それは決して自害することではありません。誤解しないで下さい。自らの意志によって自分の思いを殺す、明け渡すと言う意味です。このことを為した人のことをクリスチャンと呼びます。クリスチャンは一度「この世のいのち」に死んだので、この世にありながら「復活の命」すなわち「頂いた永遠の命」で生きるものです。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」の通りです。

一粒の麦もし死なずば・・・
こんなタイトルの小説があったような気がします。
子供の頃はこれが聖書のみことばとは知る由もありませんでした。

死ねば豊かな実を結ぶとはどういうことでしょうか?
自分の思いを殺す、明け渡すこと。

この世の命ではなく神様からいただいた復活の命によって生きる、

それがクリスチャンであるというのです。
それはつまり、私がキリストの命によって生かされている?
ここでもただ信じることによってのみ生きると書かれています。

 

 

■ヨハネ13:1さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

★最後の晩餐のはじまりの部分です。明日の朝には捕らえられ十字架につけられることを知りながら、その事を弁えず今なお誰が一番偉いか、誰よりは上かと競い合う弟子たちでした。しかし主はそれを知りつつ弟子たちの足を一人ずつ洗うのです。あなたの罪を洗いきよめることのできるお方は、愛によってご自分の命を捨てた、このお方以外にありません。ヒデ

イエスさまが弟子たちの足を洗っておあげになった。
なぜ、足を洗ってあげることが愛なのでしょうか?
罪を洗い清めること、と解釈してよいのでしょうか?

 

2012年4月 5日 (木)

デボーションメール20120405

■ヨハネ10:27わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。10:28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

★雇い人の羊飼いは狼が来るのを見ると逃げ去る。羊のことを心に掛けていないから。しかしキリストは羊のために、「私は命を捨てる」と語られ、そうなさいました。そして主の羊は聞き分けるとあります。あなたはついて行っているでしょうか。ペテロはついていこうとしました、でも大祭司の中庭で一人の婦人に「あなたもあの人の弟子だ」と言われ「私はその人を知らない」と否んでしまいます。しかし主はそれを赦されます。すなわちたとえ失敗しても、ついて行かないより、ついて行くことを願われます。なぜなら主はあなたのついて行きたいとの思いを何にもまさって喜んで下さるお方ですから。

ペテロは赦され、後に大胆に主を証しする人となります。
主はペテロのついていきたいという思いに気を留められ大いにお喜びになりました。

おずおずとイエス様の着物に触れようとしている私のことも気にかけてくださるでしょうか?

 

■ヨハネ11:39イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」11:40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」11:41そこで、彼らは石を取りのけた。

★ラザロのよみがえりの場面です。そのために「石を取りのけない」と主は語られますが、私たちが主のみわざにあずかるために取り除くべき石と想定すると何になるでしょう。不信仰です。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。ヒデ

不信仰は主と私の間を遠ざけます。
それどころか、まさにサタンの思うつぼで永遠の滅びに向かわせます。

信じさえすればいいのに・・・

なんと私は神様から離れた生活を送っていることでしょう。

2012年4月 4日 (水)

デボーションメール20120404

■ヨハネ7:50彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。7:51「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

★いじめられている人の側に立ち擁護することは勇気と霊的力がいるものです。ましてや自己保身を最優先にする価値観に立っては誤解されている人、弱い立場の人を擁護することは不可能でしょう。ニコデモはこのあとキリストが十字架につけられたあと、その亡骸を引き取りに行きます。しかもそれは弟子たちでさえ逃げ去ったあとの出来事です。本当の勇気、優しさ、強さ、友といったことを考えさせられます。

自分はとても小さい、卑怯で、欲張りで、どれほども優しくない、
自分の実態に気付き始めた子供の頃。

それはとても受け容れ難いものでした。

自分は普通の人よりずいぶんとたいしたことない人間だ、
とだんだん認めざるを得なくなってきます。

若い日の悩みは、私の中で今どのように変わったでしょうか?

 

 

■ヨハネ8:10イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」8:11彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

★あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とはキリストが姦淫の現場でとらえられた婦人の前で語った言葉です。結果、人々は誰もいなくなり、そののち語った言葉が上の内容です。罪に定める資格がない群衆と、「私も罪に定めない。」と語るキリストを同じにしてはなりません。罪ある者に対して「定めない」と語る以上、その者にはその責任が問われます。主はその責任を果たすため、この婦人だけではなく、全人類の罪の責任をも背負って十字架にかかって下さいました。その打たれた傷によってあなたも赦されたのです。ヒデ

わたしもあなたを罪に定めない・・・
なぜなら主はご自身でこの婦人の罪を購われるのですから。

罪のない者が最初に石を投げよ、と主がおっしゃったとき、
さすがに誰ひとりとして、自分は罪がない、と思った者はなかった、ということです。
何某か罪を犯していると思い当たることがあったのでしょう。

私はここにわずかばかりの救いを感じるのですが・・・

2012年4月 3日 (火)

デボーションメール20120403

■ヨハネ5:7病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」5:8イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

★今までのあまりの悔しさ、悲しさ、寂しさゆえに彼はそれに縛られていました。キリストはそんな彼に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と語られます。なぜでしょう。癒されたからです。周りの人々は、いえそれだけではない自分の中の一部分は、安息日だから取り上げてはならないと語ります。しかし実際は取り上げてよいのです。立ち上がれるのです。さあキリストを信じる信仰によってあなたの心と生活を強めて頂いて立ち上がりましょう。

■ヨハネ6:37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

★キリストのもとに来たあなたへのイエス・キリストの言葉です。そのまま受け取って下さい。主はあなたを決して拒むことなく、捨てられることがありません。そればかりかあなたを愛し、あなたに関わって下さり、あなたを建てあげようとして下さるのです。心を開いて、キリストに自分自身と生涯を委ねることが大事です。あなたの人生はキリストの御手の中、下から御手に支えられている人生です。まずはそれを受け入れ、天からのパンであるキリストの語りかけに従順しましょう。ヒデ

イエスさまはご自身が捨てられて下さったけれど、

私を決してお捨てにはならないということです。
決して、拒むことをなさらず、
むしろ罪の重い者ほど憐みをかけその御手で支えて下さいます。

どんなに深みに堕ちていってもその下にはキリストの助け手があるというのです。
このことを思うたび、わたしは涙がでるほどうれしいと思うのです。


キリストを信じる気持ちには安息日はありません。

2012年4月 2日 (月)

デボーションメール20120402

■ヨハネ4:15女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」4:16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」4:17女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。4:18あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

★5回の結婚を通してもその心が満たされることなく、なお新たに6人目ともなる人と同棲中の婦人。どれほど愛に病み、また餓え渇いていたことでしょう。いえそればかりかそこに自分ではどうすることもできない離れられない罪が潜んでいたのです。主はそのことをご存じで、求めて近づく婦人にあえてストレートに「夫を連れてきなさい」と語られます。罪は隠すものではなく、キリストのもとに告白し、そこから離れる力を頂くべきものです。このあと婦人は解放され「私のしたことの全部を言い当てた人がいます」と告白します。全部ではなくただ一つのことにどれほど人は縛られることでしょう。あなたは何かに縛られていませんか。本当の自由を経験するために、その一つのことをキリストのもとに差し出しましょう。ヒデ

この婦人の話はあまりに有名な聖書の個所で、私でも覚えています。
婦人は疲れ果てイエス様に救いを求めました。
本当によかったですねえ・・・、と言いたいような思い。
何かをしたいと思うと、それをする自由を主張する人がいます。

私もその一人です。

けれど、何かをしたい、という欲望の囚われ人になっていないだろうか、

と考えます。

“裁きの家”だったかなあ?
バナナを食べたい、と思うだろう?
でも食べたいだけ食べたらどうなる?
欲望の果ては死である、その詞が頭に残っています。

自由の仮面を被った欲望は人間を捕らえて離さないものです。
ついでに言わせていただくと、
知人にどうしても煙草をやめられない人がいます。

喫煙行為には依存性があり、それは麻薬となんらかわりありません。
麻薬、というとビビるくせに煙草は平気、

日本はなぜ煙草をこんなに自由に放置しているのか不思議です。

2012年4月 1日 (日)

デボーションメール20120401

■2ペテロ1:5こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、1:6知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、1:7敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

★「こういうわけで」とは、主が再び来られるその時のことをペテロは弁えていたからです。受けた恵みを心の中に留めることなく、生活の中に反映するすためにあなたには何ができそうですか。

受けた恵を生活の中に反映する、
どういうことだろう、と思いました。
心の中に留めることなく、
ここでごちゃごちゃ、あーでもない、こーでもない、と考えている自分がいます。

■ヨハネ1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
★ことばなるお方として来て下さったお方、それは父なる神様のもとを離れて、おとめマリヤのお腹をかりて人となって来て下さった子なる神イエス・キリストです。このお方の中に希望があります。招かれるこのお方の中に歩みましょう。ヒデ

私の希望はイエス様を離れてはない、ということですね、きっと。

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