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2012年5月20日 (日)

デボーションメール20120520

■レビ記14:57これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これがツァラアトについてのおしえである。

★イスラエルの民にそのツァラアトが深刻な病気やカビであるか診断する方法を告げることによって、彼らが感染しないように、また対処できるように主はして下さいました。たとえこれらの律法の医学的根拠を全て民は知らなくても、定められた律法に従順することを通して命が守られたのです。愛の動機で語られる主の心をまず受け取り、神のことばに信頼し、従う者でありましょう。その信仰と従順が永遠の滅びからあなたを救います。

聖書に対する考え方が変わりつつあります。
聖書は家庭医学の本みたいなところもあるのだなあ、と思いました。
あの時代にこのように科学的な著述があったこと自体、驚異です。
著者はもちろん神様。



■レビ記15:32以上が、漏出のある者、また精を漏らして汚れた者、15:33また月のさわりで不浄の女、また男か女で漏出のある者、あるいは汚れている女と寝る男についてのおしえである。

★神様はあなたの健康について気遣って下さっています。人間の尊厳、からだの尊厳、性の尊厳、主はそれらを守って下さるお方です。健康ときよくあるという両方の意味において性交に高い意識を人が保つことを主は願われます。ヒデ

高い意識を保つことにより、人は守られる、
簡単に軽く考えすぎる傾向があるのは事実で、
ときおりそのことが悲劇につながる。
なぜそれがわからないのだろう?

少し考えてみたいと思いました。

この辺りはいわゆる田舎町です。
私が育ったところも都会とは言い難いですが、
また少し違います。
さほどうるさくはないと思います。
が…。

一度こんなことがありました。
義母の告別式のおりに、
―それはお寺でのことでしたが―、
夫の親族が私の座る場所のことでもめ始めました。
ある人に、なぜそんなところにいるのだ、と叱られ、私は移動しました。
するとまた別の親戚がやってきて、
そこはおまえの座るところではない、とまた私に移動を命じました。
しばらくして先の人が、
さっき注意したのに、と私に怒り始めました。
いい加減アホクサくなった私は
「○○伯母さんに言われましたので。」
と言い返しました。

年長の方に言い返す、
と言うのはかなり勇気の要ることで、声が震えました。
それまでの私には考えられないことだったのですが、
それでも私は、あることを機に強くなっていたのです。
するとそこへ件の人物が現れたため、二人は言い争いを始めました。
勝手にやってろ、というわけにもいきません。
お義母さんのお葬式なのに…、と腹立たしい思いでした。
そこで、
「私はどこに座らせていただけばいいのですか?
もう始まりますから、お坊様に伺ってみてはいかがでしょうか?」
と努めて冷静に申しあげました。
いい加減にしてくれ、という思いでした。
実に生意気な嫁です。
しかしなんと言われようとかまわないと思いました。
これでは告別式が始められないではないか、
いったいこの人たちに義母の死を悼む気持ちはあるのか、
という思いでいっぱいでした。

で、一瞬二人は言葉に詰まりましたが、誰かが
「そりゃそうだ、お坊様に聞けばいい。」
と言ったのです。

お坊様は穏やかな笑みで、
「うーん、どこでもいいですけど、お嫁さんなら
近いところに座ればいいんじゃないですか?」
故人への思いやりが感じられる言葉でした。

離れて座れと主張した伯母はおさまらないようで、
「そんなはずはない、あの御坊さんはおかしい。」
と聞えよがしにつぶやいていましたがもう誰も聞いていませんでした。

確かに…、結婚式の場合は身内は当人たちに近いところには座りませんね。
伯母の勘違いかしら?

それ以来、私はそういうことはそれなりに聞いておくことにしました。
それほど根拠があって言っているわけではないと思ったからです。
私のように外から入ってきた人間(嫁)に対し、
偉そうに指図したい、何かいってやりたい、という思いも見え隠れしていました。
というか見え見えでした。
私が知らなければ、指図したり叱ったりするのに都合がいいのです。
ちょっと優越感に浸りたい?
一応、はい、と聞いておきます。
わざわざ顔をつぶすようなことは言わずに、
優越感に浸らせてあげます、
なーんて、実は私こそ上から目線。
要らぬ波風は立てません。

そこそこ歳をとって嫁の地位が確立されると強くもなれるのですが、
最初はそうはいきませんでした。

決して心底から意地の悪い人達ではありませんが、
ちょっと偉そうに言ってみたいだけなのです。
それこそ嫁なら誰もが受ける“洗礼”かもしれません。

しかし、義母の時はもっと酷かったと聞いています。
私にとってはおじおばの類でも義母にとっては義姉妹弟ですから、
どんなに風当たりがつよかったことでしょう。
義母はあまりの辛さに死にたいと他にもらしたこともあったそうです。
それだけに私には心底優しく、どんな時も防波堤になってくれました。


それとは別にこのことは、
宗教における教理がどこかで歪められてしまっていることを
示唆しています。
どこかで自分勝手な教理を作り
さもそれが正しいかのように錯覚してしまっています。
告別式でのお二人に、
私に対し“知ったかぶり風”を吹かせたい的な気持ちはあったにせよ、
二人がそれぞれ、自分は正しいと信じて主張していたことは伺えます。
決してわざと間違ったことをさせようとしていたわけではないでしょう。

私たちクリスチャンにも言えることですが、
いつのまにか勝手な解釈を信仰に持ち込んではいないでしょうか?

キリスト教には教えというものはなく、
あるのはただキリストのみ、
キリストを信じることが教会の中味と教えていただきました。

1週間に一度の安息日を守り
礼拝に出席し神様のおことばにふれること、
また聖研での説き明かしを聴くことにより、
軌道修正しやすいのかなと思っています。

心を空しくしてキリストに立ち返らなければなりません。
聖書を理解しよう、聖書を正しく知ろう、と思うあまり、
本末転倒になってしまうことがあるのではないかと思います。
幸い?
私はそこまで勉強熱心ではなく、
困ると、“神様…、私を憐れんで下さい。”
とまるで駆け込み寺のような信仰です。
それでも、神様は私を助けて下さるので、
私は少しいい気になっているのではないかと心配です。


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