« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2012年5月

2012年5月31日 (木)

デボーションメール20120531

昨日の送信ごめんなさい。民数記ではなくレビ記をディボーションし送信してしまいました。

■民数記11:10モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。

★エジプトを出たのち、荒野を行く民の中に、かつてはただで肉やキュウリを食べることができたと欲望に駆られ大声で泣く者、また家族で涙を流すものがありました。その時の主とモーセの反応です。伝道者の書には「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。……泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」と記されます。今朝、自らの涙を点検しましょう。自己憐憫のために流す涙は自らを滅ぼします。流す涙の中には止めるべき涙もあるのです。

■民数記12:10雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。

★「神様はモーセとだけ話されるのか。私にも話されたではないか」とミリアムの妬みを主が聞かれたとき、上の御言葉のようになりました。妬みは骨を腐らせます。要注意です。

■民数記13:32彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。13:33そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

★約束の地カナンの偵察に遣わされたヨシュアとカレブ以外の反応です。彼らに有り、彼らになかったものがイスラエルの将来を大きく変えました。「恐れと信仰」は今も変わることのない神の民のテーマです。あなたの思いが恐れによって見るべきものを見失いませんように。ヒデ

続きを読む "デボーションメール20120531" »

2012年5月30日 (水)

デボーションメール20120530

■民数記8:34きょうしたことは、あなたがたの贖いをするように主が命じられたとおりである。

★アロンとその子たちが神様とイスラエルに仕えるために祭司として任職される方法は以下の通りでした。「彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った」。これらの意味は、強いられてではなく、自由の意志をもって主人の僕となるです。あなたは既に新約の祭司として主の前に自分自身を献げられましたか。その祝福は千代にまで続くと神様は約束されます。

新約の祭司として自分自身を献げているか、
なんと程遠い毎日。



■民数9:23ついでモーセとアロンは会見の天幕に入り、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、9:24主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。

★神様は従順をもってご自身の祭司がささげものをする時、それに応えて民の中にご自身の臨在を明らかにし、豊かな恵みをもって報いて下さるお方です。あなたの礼拝が、家族および大切な人々の間にも、主の臨在と祝福をもたらすものでありますように。

来れる時はなるべく礼拝に来よう、
無理しないで来よう、
無理すると続かなくなるから。
などと思いました。
もう何年も前の話で、牧師先生の御説教はためになる講演会。

そんな私に牧師先生はにこにこと、
そうですか、じゃ、少し。
少しだけ無理していらっしゃって下さいね。
今は礼拝を守るのはあたりまえのことになりました。




■民数記10:1さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。10:2すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。

神様に仕える全ての者が襟を正され、畏れを抱く箇所です。「異なった火」とは自分勝手に造り出した火、自分の方法で輝かそうとした火です。祭司が輝かせる火とは主への従順をもって輝かす火でなければなりません。ヒデ

主への従順が問われる場面です。
私は、ここが本当にこわいのです。
私は自分が自分勝手であることを知っています。

知っているのに自我を通してしまうのです。

聖書はときどきとてもこわいのです。

あまりに自分がはずれていると思うと、
自分が息をしていることが不思議な気がします。


続きを読む "デボーションメール20120530" »

2012年5月29日 (火)

デボーションメール20120529

■民数記7:89モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「贖いのふた」の二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。

★幕屋を建て終わり、それに油が注がれ、聖別された後、12部族の族長達が、幕屋で使用したり、幕屋を維持したりするための贈り物とささげ物をもって来ましたが、このためには民の全てが参加しました。理由はみんなの幕屋だから。そうして神様はご自身からの御声の聞き方をモーセを通して示されました。贖いの蓋のケルビムの間から。贖罪のなされるところから。

では新約時代はそれは何処でしょう。キリストが成し遂げて下さった十字架の救いの間からです。主は「父よ彼らをおゆるし下さい」と祈られました。あなたはここから語られる主の御声を聞かなければなりません。十字架を仰ぐあなたを主はすでに赦して下さっています。あなたを訴える悪しき霊にだまされないように、縛られないように。主はあなたを解放するために召し出されたのです。イザヤ43:1の「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」との御声を受けとりましょう。ヒデ

どうしても自分で自分をゆるせないと思う時があるけれど、
私をゆるすのは私ではなく、神様でした。
主キリストが私を贖って下さいました。

自分を軽蔑することが時々あります。
神様が尊いとおっしゃって下さっているのに、
私はしばしば私を軽んじています。

2012年5月28日 (月)

デボーションメール20120528

■民数記5:6「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、5:7自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。

★このことは新約においても同じで「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)、「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5:16)とあります。これが曖昧にされると命はにごり、共同体に愛は流れなくなります。特に夫婦間の不信の罪について、この章は曖昧にせず深く心に問いかけます。家庭が祝福の源だからです。

家庭に祝福の源がある、そうでした。
思えば私はごく平凡で幸せな家庭に育ちました。
本来はそれがあたりまえではないかと誰もが思うような…
そんな家庭だと思います。
よく、今の幸せをあたりまえと思ってはいけない、
などという言い方を致しますが、
それは感謝を忘れることを戒める意味だと思います。
私はその家の子供なら家族の一員として当然受けるべき恩恵
を受けていたのでしょう。
あたりまえのことは神様がお決めになったこと
神様がこのことがあたりまえであるようにと決められたこと。
あたりまえは美しい。


■民数記6:23「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。6:24『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。6:25主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。6:26主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』6:27彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

★旧約時代に示された祝福の祈りで、現在の祝祷の原型です。あなたはこの祈りのスピリットをもって、あなたの大切な人々のために祈りの手をあげることができます。あなたが多くの人を祝福できますように。ヒデ

祈りとは、
神様との交わり。
主の御顔のあるところで、
主の御顔を仰ぎみて、
生きましょう。

ちょっと言ってみたかった(笑)。
でも本当のこと。

続きを読む "デボーションメール20120528" »

2012年5月27日 (日)

デボーションメール20120527

■民数記3:6「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。

★主に仕えるようにと召されたレビ人は25歳から奉仕をはじめ5年の実地訓練を受け、30歳にしてすべての奉仕をすることが許されました。ではキリストを通して生ける神様に仕えるものとされた私たちはどうでしょう。同じく主はあなたを試され、働きに間に合うようにとその資質を練り上げ、祝福し用いられます。そうあなたは最も尊い魂に仕える者として召し出されたのです。喜んで主の訓練を受け入れましょう。

私がキリストを通して生ける神様に仕えるものとされている。

レビ人が実地訓練を受け全ての奉仕をすることが許されたように、

主は私を訓練されるとするならば…?

いったいどんな訓練が私に与えられるのでしょう?

もう与えられているのでしょうか?

■民数記4:15宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族が入って来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。

★エジプトの偶像は人間が操作することができました。しかしイスラエルの神様は人間が操作することなど出来ず、またこの世に存在する何らかの形に当てはめることもゆるされませんでした。イスラエルにご自身を顕された神様は被造物を越えられたお方。軽々しく扱うべきお方でないことが、アロンの子孫に語られた祭司規定を通してしめされたのです。主を畏れることは知識のはじめであることをもう一度覚えましょう。ヒデ

主を畏れることから始めよう。

何度でも始めよう。

私はなんにつけ、すぐに忘れてしまうので、
何度でも思いだして、

何度でも始めているような気がしています。

続きを読む "デボーションメール20120527" »

2012年5月26日 (土)

デボーションメール20120526

■民数記1:2「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。

★この主の名を受けてモーセはイスラエルの民の数を数えます。その数20歳以上の軍務につくことのできる男子だけで603550人でした。同じようにダビデも王となってイスラエルの数を数えたことがあります。(2サム24:10)ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」と。同じ行為でも動機を主は見られます。あなたの行動が自分の力を誇り、自分に栄光を帰そうとするものでなく、ただ主に栄光を帰そうとするものでありますように。

人は何をするにしてもその動機が問われるということです。
人はやはり自分が可愛い生き物です。
人の為、と思っても実は自分の為だと気づかずにいます。
ただ主に栄光を帰すこと、
それこそが自分の喜びでありますように。


■民数記2:2「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。

★男だけで603550人、全体では200万とも言われるイスラエルの民。主はこの人々に「軍団ごとに幕屋を中心とした宿営として移動せよ」と命じます。家系を中心に。そして父なる神様は約束の地、すなわち「天国」に導くために、あなたをキリストの家系に信仰によって接ぎ木して下さいました。この後イスラエルは荒野の旅の中で様々つぶやき、祝福を失い試練の中を通りますが、あなたはどうでしょう。主の十字架の愛に対する感謝と信仰をもって祝福の中を歩ませて頂きましょう。ヒデ

私の旅は荒野の中?

祝福を失い、試錬の中を通るとは…
もう、考えただけで気持ちが萎えそうです。

主の大きな大きな愛に感謝します。




2012年5月25日 (金)

デボーションメール20120525

■レビ記26:3もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、……26:14もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行わないなら、

★この章は上の二つの対比が明確です。聞き従うものには地の産物、畑の木々の実、満ち足りるパン、安らかな地、平和、だれにも悩まされない睡眠が約束されていますが、聞き従わないものには、あなたを憎む者があなたがたを踏みつけ、だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げると語られます。神様がどれほどイスラエルを、選びの民を、あなたを愛しておられることか。神様があなたを大切に思って居てくださる感謝の応答としての生き方を選び取りましょう。

■レビ記27:34以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。

★レビ記の締めくくりの言葉が上の御言葉です。このレビ記を通して、読者は神様のご性質を学ぶことができます。どんなに時代が変わろうとも一貫した姿勢をもって選びの民と関わって下さろうとする主があなたの神です。このお方への信頼によってあなたの生涯は生かされます。ヒデ

私は愛されています。
神様は見返りを求めない愛を注いで下さっています。
主は見返りを求めていらっしゃいませんが、
私は主を愛することで主に応え、
主に聞き従う人生でありたい、

そう思うのに。

2012年5月24日 (木)

デボーションメール20120524

■レビ記24:16主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。

★神様への冒涜に対する処罰はあまりに厳しくも見えますが、反対に、それはどれだけ真摯に神様が私たちとの関係に期待しておられるかの表れでもあります。いとも簡単に神の御名にかけて誓い、それを破り、また神様がさも存在しないかのように振る舞う。注意すべきです。しかしイエス・キリストの誠実と憐れみは昨日も今日もいつまでも変わることがありません。

キリスト・イエスがいつも天の父なる神様に、
私のとりなしをして下さっていることを信じます。



■レビ記25:39もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。

★この章で繰り返し繰り返し使われる言葉は「わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。」です。土地も人も主のもの。自分が所有者のごとく振る舞うべきではないことを教えます。あなたが、あなたの人生と所有物に対して忠実な管理者であれますように。ヒデ

私の人生を私自身が忠実に管理すべし。
私の所有物を私が忠実に管理すべし。
常に忠実であれ、主に対して。
そうでした。
私が私自身のものと思い込んでいるものは主のものでした。

2012年5月23日 (水)

デボーションメール20120523

■レビ記22:2「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるものとすべきものである。わたしは主である。

★イスラエルはエジプトでの400年の奴隷生活を通してエジプトの祭司を熟知していました。宗教、それは国の勢力を増すための道具。しかし主はイスラエルの人々に、主の祭司の働きはそうではない。人々の心を神様へと向けるものであることを明確にしたのです。主はあなたの存在が世の光、地の塩として、人々の心を聖さと恵みに満ちた神様に向かわせるものであるようにと願っておられます。

神様は私に世の光、地の塩になれとおっしゃっているのです。

そのために命を与えられたのだと。
全く持って信じられないような気持ちですが、
私にそれだけの価値があると神様はお考えなのですか?
神様を疑うわけではありませんが、
私はどれほどのものなのだろうと、自分を値踏みしてしまいます。
神様が尊いとおっしゃって下さるのに、
私がえらんだのだと言って下さっているのに。



■レビ記23:42あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。

★仮庵の祭りはイスラエルの民にとって家族全員で行う特別な祭りです。400年も続いたエジプトの奴隷生活から脱出させて下さった神様の恵みを覚えるのです。主の救いは個人単位ではなく家族、親族の救いであることを受けとりましょう。そしてその実現のために祈りましょう。信仰をもってささげる祈りに応え、主は不思議をもって働いてくださり、やがての日、必ずあなたにその日を備えて下さる事を信じます。ヒデ

主の救いは家族、親族への救い、
けっして私だけの救いではありません。
一日も早く家族もともに救われたい。




2012年5月22日 (火)

デボーションメール20120522

■レビ記19:9あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。19:10またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

★あなたは父なる神様について誤解していることがあるかも知れません。いかに憐れみ深いお方であるか。ぜひこの章はご自身でよみ味わって頂きたい箇所です。自身か家族に痛みや弱さを持つ者として味わってみて下さい。

残しておかなければならない、
とおっしゃっています。
神様が私にいつも憐れみ深くして下さるように、
私も神様からいただいたものは独り占めしてはいけない。




■レビ記20:24それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、主である。

★神様はイスラエルに先住民族がもっていたものとは異なる価値基準を示します。その目的が上の御言葉です。父なる神様は、神の民が生きる場所が、御心が天でなるごとく地でもなる場所になるようにと願っています。それを造り出すようにと召し出されたのがあなたです。

異なる価値基準により、えり分けられた民。
私が召しだされたわけ。
神の民をが生きる場所、神の御心にかなう場所を造る、
そう、解釈してよいのでしょうか?
それは私のクリスチャンとしての信仰を世に示すことなのでしょうか?



■レビ記21:5彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。

★この「どんな傷もつけてはならない」と同じ章に淫行をしてはならなが記されています。自傷行為も、入れ墨も、また淫行もあなた自身を傷つけるもの。そうした思いに駆られるなら、それらの行動に移す前に、その思いを主の前に持ち出すことを、主は願っておられます。ヒデ

からだにどんな傷もつけてはならないということが
こういうことであると考えが及びませんでした。
けれど、自分自身を大切にすることを心がけてきました。
自分を本当の意味で大切にできない人間が、

他の人を大切にできるでしょうか?
私は神様によって生かされているものです。

神様を無視する生活をしてはならない、と考えます。




2012年5月21日 (月)

デボーションメール20120521

■レビ記16:9アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。16:10アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

★贖罪の日にささげられるこの2頭のやぎの意味は、イスラエルの罪に対す2通りの神様の対処法です。いけにえのやぎを通して民の罪が赦され、アザゼルとして解き放たれるやぎを通して罪からの解放を表したのです。旧約時代祭司は多くの準備をして神様の前に出なければなりませんでしたが、あなたはキリストの贖いゆえにいつでも神様に近づく罪の赦しと解放を受けとることができます。

洗礼を受けるための準備会をしていただいていた時に、
“今は動物を殺さなくてもよくなったわけ”を、
牧師先生がお話しして下さいました。
旧約の時代に神様がお決めになったことなのですが、
動物の血で贖われるということが理解できませんでした。
聖書に書かれてある限り、事実であるわけですが、
神様がなぜ罪の贖いにそういった動物の血を必要とされたのかは、
正直な話、未だに完全に理解、納得できたとはいえません。
ただそれが本当のことなので疑いはしませんし、
ナンセンス!などと言うつもりもありません。
ただ、そうだったのだ、と知るだけです。



■レビ記17:4主の幕屋の前に主へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。

★イスラエルの民が偶像礼拝に陥ったのは「めいめいが自分の目に正しいと見える行った」ためでした。この時神様は罪の赦しのためのいけにえ、すなわち献げ物について明確な時間と場所を指定したのです。

なぜ、偶像を拝むヒトがいるのか不思議です。
なぜ、自分たち人間が作った物を、
あたかもそれが神様であるかのように拝むのですか?
自然界の動植物を神に見立てて拝むヒトもいます。
まだその方が救われる気もしますが、
それらは神様の被造物ではあっても
神様そのものではないということを、
少なくとも今、私は知っています。
木に巣箱をかけると鳥がやってきて玉子を産むように、
偶像という巣箱に、
神様もいらっしゃって信仰という養分を得ながら、
恵と祝福の玉子を養い、

やがてはそこから福音が羽ばたいていくとでもいうのか?
幼い頃、私の心にあった素朴な疑問。
明確な答えをいただきました。



■レビ記18:30あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行われていた忌みきらうべき風習を決して行わないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

★神様はイスラエルをご自身へと分離させることによって民を導き祝福されます。功績中心、業績中心のこの世の価値観の中で、神の子供としての命を失わないようにキリストにつきましょう。ヒデ

功績を残すことや業績をあげることは、
結果としてはのぞましいことであろうし、
人はそのために頑張ることもできます。
けれど、そのことと神の子供としての命を生きることとは
全く次元が違います。
根底に流れ脈打つ神の命を感じ、
いつもキリストにあって生きるものでありたいと思います。




続きを読む "デボーションメール20120521" »

2012年5月20日 (日)

デボーションメール20120520

■レビ記14:57これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これがツァラアトについてのおしえである。

★イスラエルの民にそのツァラアトが深刻な病気やカビであるか診断する方法を告げることによって、彼らが感染しないように、また対処できるように主はして下さいました。たとえこれらの律法の医学的根拠を全て民は知らなくても、定められた律法に従順することを通して命が守られたのです。愛の動機で語られる主の心をまず受け取り、神のことばに信頼し、従う者でありましょう。その信仰と従順が永遠の滅びからあなたを救います。

聖書に対する考え方が変わりつつあります。
聖書は家庭医学の本みたいなところもあるのだなあ、と思いました。
あの時代にこのように科学的な著述があったこと自体、驚異です。
著者はもちろん神様。



■レビ記15:32以上が、漏出のある者、また精を漏らして汚れた者、15:33また月のさわりで不浄の女、また男か女で漏出のある者、あるいは汚れている女と寝る男についてのおしえである。

★神様はあなたの健康について気遣って下さっています。人間の尊厳、からだの尊厳、性の尊厳、主はそれらを守って下さるお方です。健康ときよくあるという両方の意味において性交に高い意識を人が保つことを主は願われます。ヒデ

高い意識を保つことにより、人は守られる、
簡単に軽く考えすぎる傾向があるのは事実で、
ときおりそのことが悲劇につながる。
なぜそれがわからないのだろう?

続きを読む "デボーションメール20120520" »

2012年5月19日 (土)

聖書ってな~に?

聖書は私の理解の範疇を超えることが大部分です。
というか読んでも意味のわからないことがあまりに多くて、
理解して納得する、というレベルにまでとても至りません。
だから、少しづつ学んでいます。
私にわかるのは、
聖書に書かれてあることは全て実際に起こったできごとだ、
ということです。
というか、私の中で聖書に書かれてあるのだから事実だ、
ということです。
それが全て倫理的に正しいかとかそういう問題は
ちょっと横に置いといて下さいよ。
とにかく事実。


聖書が難解なのは訳のまずさにある、
ときいたことがあります。
前にも書いたけれど、
現在、私の使っているのは口語訳です。
正直、どこが口語訳なんだろう?
と思います。

新改訳を使っていたこともあります。
牧師先生はよく説教や聖研の折りに、
○○訳では…、と他の聖書の訳を引用されます。
もちろんよりいっそうの理解を深めるためです。

自分の信じているものがなんなのか知りたい、
知ったことにより、不信になるということはない。
そう思えるのです。
信じさえすればいい、と思っていますが、
神様は私に、きちんと知りたいという思いを持たせて下さるのは、
やはり人から聞かれた時にきちんと答える用意をしておきなさい、
ということだと思っています。

聖書を学んでいくうちに、
そのことを明記してある個所がありました。
聖職者を目指す、教師になる、それだけが道を伝える方法ではないですから、
それはクリスチャン全てに対し
神様がそうおっしゃっているのだと思っています。

かつてある宗教?を信仰?している方が、
○○様(教祖的な存在)は100%正しいとおっしゃいました。
「だってその人、人間でしょう?
人間であるかぎり、100%正しい、なんてことがあるとは思えない。」
「だって、幼い頃から

ちゃんとそういう教育を受けてきているから…。」
「でも、教育するのは人間でしょう?
不完全な人間が教育するのに、完全な人間ができるわけないと思うわ。」

当時私はもちろんクリスチャンではありませんでした。
けれど完全に義である神様の存在は信じて疑いませんでした。
義とされるのは神様をおいて他にはないと信じていました。
なぜ人間にすぎない存在を、100%完全、義であると言い切れるのか、
そんなことを信じるなんて、それこそ、シンジラレナーイ。
私はめったにそういう話はしませんでした。
というか、そういう話をしたのはそれ一度きりです。
もめる元と考えていたからです。

続きを読む "聖書ってな~に?" »

デボーションメール20120519

■レビ記11:45わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」

★主は一つ一つ汚れた食べ物を紹介し、最後にこのことばを語られます。身を守る鱗、すなわち神のことばを重んじ、ひづめの分かれた足を持つもの、それは世的なところにだけとどまるのではなく、信仰の高嶺にも登る事ができるものであって欲しいと、さまざま語られます。しかし同時に失敗の場合の赦しも語られています。新約に生きる私たちはすべて祈りによってきよめられるので、これらの規定に縛られる必要はありませんが、このスピリットは受け継ぎましょう。

旧約聖書を読み進めるうちにますます、
聖書は難解だという思いが膨れ上がってきました。
でも、とにかく先へ先へと、
わかろうがわかるまいがただひたすら読み進めます。
聖書は間違っていない、事実なのだ、とちょっと意地になっています。
聖書、
とりわけ旧約聖書はいちいち細かいことにひっかかっていては、
一生かかったところで読めないと思います。
また一にかえって何度でも読めばいいのだ、
野を越え山を越え道なき道を踏み越えぐずぐず言わずに進め、
みたいな思い(笑)。

ギデオンの聖書がなぜ新約だけなのか、なんとなくわかるような気がする…。
聖書は読書ではなく通読だ。
そうでした、
私は新約に生きているのでした。



■レビ記12:7祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。

★全文をお読み下さい。ここから主がいかに婦人を尊び、守ろうとしているかを読み取ることができるでしょう。聖書はあなたに対する、全てここと同じ神様の愛と憐れみのメッセージです。受けとりましょう。滅ぼすためではなく、あなたが愛といのちに輝くためです。

他の宗教で…、
女性から教育を受ける権利を奪い続けていたある種の宗教は言うまでもなく、
ときどき女性が不当な仕打ちを受けている、と感じることがあります。
で、女性もそれをなんとも思わず、それに従順になっていることです。
かつてのウーマンリブは同じ女としてもいただけませんが、
え?と思うことが多々あります。
主が男と女を創造されたのです。
それぞれの役割を果たすべきだと思う。
どちらがどうとかではなく、どちらも尊ばれなければならない。
同じように尊ばれようとすれば、
より女性に心をかけていただく必要があるような気がするが…。



■レビ記13:3祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはツァラアトの患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。

★聖書は伝染性がありほとんどの場合、人を死に至らせるツァラアトについても規定します。その人を守り群れを守るためです。癒された時の群れへの復帰の道筋も明確です。全ては神様の愛の心です。ヒデ

聖書ってある意味、“生活の書”?
そんなことを思う私はアホですか?
それとも神様に対して不遜でしょうか?




続きを読む "デボーションメール20120519" »

2012年5月18日 (金)

デボーションメール20120518

■レビ記8:6 それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。

★神様の一方的な選びと召しによってアロンの子孫が祭司の名誉と責任を負うことに。祭司とされた彼らは、人々がいけにえをささげるのを助ける前に、きよめられ、自らをささげなければなりませんでした。あなたもこの時代、神様によって祭司とされました。大切な人々の救いのために神様の前に取りなしましょう。

うん、ここの意味はわかる、と思う。
私は祭司。
しかし…。
なんか、どう考えても役不足の反対、
力量の不足。



■レビ記9:23ついでモーセとアロンは会見の天幕に入り、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、9:24主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。

★主の定めに従ってイスラエルが献げ物をしたとき、主は火をもって応えて下さいました。この時代、主は信者の心の内に聖霊の火を注ぎ、その心をきよめ愛に満たされます。このことを通して今の時代も世界は神様が生き働いておられることを知ることができるのです。

この時にはこういうことが実際に起こったのです。
現在ならば、大騒ぎになって、
消火器だの水バケツだのとあわてふためくところです。
このことが聖書にきちんと記されることにより、
私ども後世のクリスチャンは神様の働きを知ることができる。
大切なのはこの時に終わってしまっているのではないということ、
神様は今も生きて働き続けていらっしゃるということ。



■レビ記10:1さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。10:2すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。

★召し出された者の責任を思います。神様の前に混ざりもの。すなわち肉の欲をこめ、自分の考えに基づく献げ物はゆるされません。神様に仕える者は行いではなく、心の動機から問われるのです。愛はおうおうにして、自分の甘えを他者に強いても見えなくすることもあるかも知れません。さまざまな関係において他者を愛するゆえに自分が守るべき約束や義務がおろそかになっていないか点検してみましょう。ヒデ

これがキリスト教の厳しさのひとつだと思っています。
独りよがりの信仰はゆるされません。
勝手に聖書を解釈してしまうことはほんとうにこわい。
けれど神様はやさしい。
だから、正しいことをきちんと知りたい。





2012年5月17日 (木)

デボーションメール20120517

■レビ記5:4あるいは人が口で軽々しく、害になることでも益になることでも誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどんなことであれ、そのことを知ってはいたのに彼の目から隠れ、後でそれらの一つについて咎を覚える場合、5:5これらの一つについて咎を覚えるときは、犯した罪を告白しなさい。

★イエス様は「誓ってはならない。ただはいをはい、いいえをいいえとしなさい。それ以上は罪からくる」と語られました。あなたがもし、誓うことであなたの言葉を強めなければならないと感じるなら、あなたの誠意はどこかがおかしくなっていると警告するのです。告白を通して罪に陥る誘惑から自分を守れる恵みを感謝しましょう。

★祭壇の聖なる火は神様がおこされたものでした。あなたの内に聖なる思いへの情熱を与えられたのも主です。それを保ち続けるために用いられるのはあなたの意志と祈りです。肉の頑張りによってではなく、主の愛に対する感謝の応答として、内に頂いた聖なる思いを大切にし続けましょう。そのために誘惑から離れるのです。

神様がおこし、与え給いた聖なる思いへの熱き情熱、
なんか、細々と燃やし続けている状態だなあ、私。



■レビ記7:26また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。

★血はいのちの川であり、いのちは神様からの賜物です。ゆえにすべて神様に返されるもので人によって使われることがなかったのです。いのちを神様のために用いる生涯を意識しましょう。ヒデ

ここだけ読むと、
魚肉を食べてはならない、と書かれてあるように思えます。
動物によるものはいっさい口にしない、そんな宗教もあります。
だしをとるのもかつをなどではなく、昆布やしいたけ、かんぴょうから、
と聞いたことがあります。
動物の肉さえ口にしなければいいのでしょうか?
植物だって切られても血が出ないだけ、
と言った人もいます。
動物には魂がないから天国にははいれない、
とききました。
私は魂があるかどうかは別として、たとえあり1匹であっても、
地上の命を全うした後は天国にいると思っていました。

誓い、
私はおおよそ、誓いというものをしたことがありません。
守る自信がないから(笑)。
人の心は移ろいやすい、不変のものなんてない、
子供の頃からそんなふうに思っていました。

約束…、
私の中では、誓いに近い、かもしれません。
約束は守る子供でした。
少なくとも守るために努力する子でした。
できない約束は最初からしない、そんな子でした。
なんかちょっと可愛くない、うーん、嫌な子?かも、
でも人をうらぎりたくなければそうするしかなかったのだと思います。
軽々しく約束するのはいやでした。
指きりげんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った…、
これって、本当はものすごくコワイ…
幸い、私の周囲にはできない約束を強要するような人はいませんでした。
私はまもられていたのですね。

再度、誓い、
もっと厳かで、自分自身、
いえ、神様に対してなされるべき?
自分自身に対する誓いは神様に対する誓いかもしれない。
他人と約束するとがんばれるくせに
自分にだとまあ、いいか、となってしまう。
神様は御自分との約束を守るように、
兄弟姉妹との約束も守りなさいとおっしゃる。
たちかえれば、
一番守らなくてはならないのが神様との約束です。

誓いなんかしなくたって大丈夫!
の人生を送っている、私…?
なんかこんがらがってきました。



■レビ記6:12祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。6:13火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。

そういえばどこかのお寺で燃やし続けている火があるときいたことがあります。

菜種油が燃料だったと思うのですが、その火を絶やさぬように、
修行僧が菜種油を注ぐときいたような気がします。
冬になると厳しい寒さで菜種油が凍るというのです。
それを温めて液体の状態にして注ぐのが一苦労であるとか?
曖昧な幼い頃の記憶にすぎませんが、これが本当なら
キリスト教でない他の宗教でも燃え続ける火がある?


続きを読む "デボーションメール20120517" »

祈祷会20120516

あかしの時間です。

主の御顔をさがす、ということは、信仰を守ること。


先日の特別講演会から・・・、

村上先生のお話。

洗礼を受けようとしない人、
続かないんじゃないか、って思ってませんか?

洗礼を受けて、途中で続かなくなったらかっこ悪いとかって思ってない?


それはね、神様におまかせしてないからなんですよ。
すべて、神様におまかせすればいいんですよ。

2012年5月16日 (水)

産んでくれ!

「産んでくれと頼んだ覚えはない。」
子供に言われたことがあります。
私も同じことを母に言った記憶があります。
今から思うと穴を掘ってでも入りたいほど恥ずかしい。
言っていけないことを言ってしまった、
そう思い続けてきました
でも、なぜそれがいけないことなのか、
自分で自分に説明できませんでした。



いつかこんな日がくるのではないかと思っていました。
もし自分が子供からそう言われたら?
私は答えを用意していませんでした。
と言うか、答を見つけていませんでした。

ふと私の口をついて出た言葉。
「へーえ、では、貴女は産んでくれと頼めるわけ?」

さらに、
「私も、産まれてほしい、と、貴女に、たのんだ覚えはない。」

調子にのって、
「もし、頼めるのなら、もっと聞きわけのいい、こんなバカなこと言わない子を選ぶ。」

しかし、正直になって、
「でも、選べない。」

ここで結論に至る。
「人間は、産んでくれ、とか、産まれてほしい、と言えるほど偉くない。」

なぜ、こんなことを言ったのか今でもわかりません。

「いいか?全部、神様がお決めになったこと、
だからそういう愚かなことは二度と言わないように。」



私自身のこれまでの姿を見せつけられました。


「昔、バカなことを言いました。悪かったと思ってます。」
母にそう言ってあやまると、
「そんなことあったかなあ、忘れたわ。」
と母。
「だいたい、あなた方(姉と私)はおりこうさんで手がかからんかったからねえ…。」

「…。」

そんなにおりこうだったとは(絶対に)思えない!
姉はともかく、
産んでくれと頼んだ覚えはない、
などと親にむかって吠えた私は、
実に愚かで生意気せんばんではありませんか!



しかし、せっかく母がそう言ってくれるのだから、
まあ、そういうことにしておこう…
子供にかけた苦労は忘れてしまうということでしょうか?

デボーションメール20120516

■レビ記1:4その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。

★人はアダムの子孫として、いのちの贖いなしに神様の前にでることができない者との自覚がイスラエルを罪と裁きから守る事を教えます。自分をどんな者として自覚するかが問われます。残念ですが、行いによって神様に受け入れられるほど、人間の動機と行為は聖いものではありません。それを謙虚に受け入れ、いけにえをささげて神様の前に出るのです。


自分がいくら努力しても神様には受け入れられない、

いかにも理不尽な感じがします。
原罪について、知人は
自分が犯した覚えがないのに罪人だと言われるのは納得がいかない、
と言いました。
この辺りが難しいところです。
自分をどのような者ととらえるか、
関西弁でいえば、
「なんぼのもんやねん?」
というところでしょうか。
生まれながらに罪をもった存在、それが私。
卑下するのではなく謙虚でありたい私。



■レビ記2:11あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しでも、主への火によるささげ物として焼いて煙にしてはならないからである。

★主にささげる供え物にはまぜものがあってはならない。事実以上に大きく膨らまそうとするものがあってはならないと教えます。献げ物によって自分が崇められるようなささげ方をしてはなりません。

なぜパン種を入れてはいけないのか、
充分に納得致しました。
急いでいたから、パン種を入れる間がなかった、
と、昔、誰かに言われてからそう信じていたのですが・・・、
あれは聖書に出てくる捧げ物のことではなかったのだろうか?

■レビ記3:2その人はささげ物の頭に手を置く。それは会見の天幕の入口の所でほふられる。そして、祭司であるアロンの子らは祭壇の回りにその血を注ぎかけなさい。

★神の小羊であるキリストは全人類の罪をその身に負うために、自ら十字架の上にいのちを捧げられました。ゆえに十字架を通って神様に近づく人をいつも救うことができるのです。

なぜ、キリストが神の子羊と言われるのかを知った時、
自分がイエス・キリストの十字架における血の贖いにより
罪ゆるされ救いの恵にあずかったということがわかりました。



■レビ記4:3もし油そそがれた祭司が罪を犯し、民が咎を覚えるなら、その人は自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。

★良心の呵責なく生きることの尊さを教えます。ヒデ

聖書通読で、この辺りを読んでいる頃は、
さっぱり意味がわかりませんでした。
意味がわからなくてもかまいません、とにかく読み進めなさい、
そう言われて読んでいきました。
本当は自分が血を流さないといけないのだけど、
アダムの子孫である私の血はすでに聖くないというわけで・・・
咎の全くない血でなければいけにえにはならないから、
傷のない無垢な動物をいけにえとして捧げる、ということ。
「なぜ、罪のない動物を殺すのか?キリスト教って残酷だ。」
と言う人もいるのだそうです。
御心配なく、
今はイエス・キリストが全ての罪を背負い十字架にかかって死んで下さったので、
動物をいけにえとして捧げる必要はなくなりました。


2012年5月15日 (火)

デボーションメール20120515

■出エジプト39:6彼らは、しまめのうを、金のわくにはめ込み、これに印を彫るようにして、イスラエルの子らの名を彫った。39:7彼らはそれをエポデの肩当てにつけ、主がモーセに命じられたとおりに、イスラエルの子らの記念の石とした。

★祭司が身につけるエポデ、そこに刻まれたのはイスラエル12部族の名前です。あなたも神様によって召し出された神の皇太子。イエス様の胸にはあなたの名前が刻まれています。光り輝く宝石として。日ごとに天であなたのために父なる神様の前に出てとりなして下さるお方があることを感謝しましょう。聖書には「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)と主の天上での働きを証します。

なぜ、イスラエルの子らが選ばれたのか?
それ以外の人は救われないんではないのか?
と誰かが言っているのを聞いたことがあります。
私は、
イスラエルだけが救われるわけじゃない、
と思いました。
誰でもキリストを信じれば救われる、

と思いました。
だけど私がそう言ったところで、その人は納得しないでしょう。
これから信じよう

(もしくは絶対に信じてやらない)

と思っている人に
真実を伝えることは難しい、

極めつけは
“あなたが信じようと信じまいと
キリストは生きて今も働いていらっしゃいます。”



■出エジプト40:35モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。40:36イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。40:37雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

★神様が命じられた通り、モーセと民が幕屋を備えたとき、神様は約束通りイスラエルの民の中に留まり、イスラエルと共に歩み始めて下さいました。いよいよ約束の地をめざしたイスラエルの神様中心の生活のスタートです。この生活のスタイルを通してイスラエルは、荒野においても食べるものに困ることなく、靴もすり切れず守られたのです。キーワードは神様をおいて勇み足になることなく、また、神様が進まれるのに、そこにとどまって自らを神とすることなくです。天国とはイエス様が共にいて下さるところ、主が共にいてくだされば荒野も御国に変えられます。ヒデ

とすれば、
今私がいるここは天国だということです。
同じくびきを負うどころか、
私はイエス様におぶわれている者です。
罪でどっしりと重い私を背負っていて下さる、
としか思えません。



2012年5月14日 (月)

キリストは生きていらっしゃる、目にみえないだけ

この世ではキリストは私たちと同じ形をとられました。
私は美術館で絵を見るのが好きですが、
特に洋画を好きで、
近隣に美術館で催される企画展などには積極的に足を運びます。
聖書に題材をとったものは多くキリストの磔刑の場面はおなじみです。
もちろん、エルグレコの“受胎告知”はあまりに有名、
あの絵は似た構図の絵が何枚かあるそうです。
”受胎告知”にはキリストの顔はもちろん描かれてはいません。
が、しかし、多くの場合キリストは、
面長で鼻の高い堀の深い顔立ちに描かれています。
(例外もありますが。)

人はイエス様が人間としての形をとりこの世に下りていらっしゃった時代に
思いをはせて描きました。
実際に当時のイエス様を見たことのある者はとうにおりませんし、
聖書にもイエス様の容貌が細かく具体的に記されてはいないと思います。
ヨーロッパの画家が描くキリストが自分たちに似せて描かれたのは
しかたないでしょう。
実際はもっとエイジャンな容貌だったに違いないと主張する人たちもいます。

日本にキリスト教が伝来した時、
外国人の宗教を信じるのか、日本古来の仏教があるじゃないか、
といったむきもありました。
けれど仏教だって538年に外国から伝わったものです。
その後、キリスト教が伝わり、
日本におけるクリスチャンの歴史は迫害の連続で
受難とともにはじまりました。

目に見えるものだけが真実ではない。
むしろ真実は目に見えないことが多い。
キリストは生きていらっしゃる。

デボーションメール20120514

■出エジプト36:3彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。

★聖所で仕える祭司の働きのために、イスラエルの人々は定められた以上の奉納物をささげようと、朝ごとにやって来ました。主への感謝の応答としての自発の心です。これがまさに朝の聖書通読、ディボーションの心です。あなたの内にかつてのイスラエルの民の内にあった同じ主を愛する心が与えられていることに感謝。

★契約の箱の上の造りです。「贖いのふた」を一心に見つめるケルビムを通して、神様の関心が何かを鮮やかに示します。すわわちそれは罪の赦し。ひとりも滅びる事を願われず今も時を長くしている主の心です。急がれ、求められるのは福音宣教です。

ケルビムが見つめる贖いの蓋、契約の箱。
神様の罪の赦しへの関心。
先日国家とクリスチャンの関係について聖研でのお話がありました。
日本ではクリスチャンが人口の1%に過ぎない、
どうしてもこれを越えられない、
日本におけるキリスト教の歴史が語られました。
国家権力に屈したかつてのクリスチャンがいました。
今は信仰の自由が認められていますが、
迫害の世で命をかけて信仰を守り通すことができるだろうか。
このことに関しては私自身、思いが揺れ動きます。
数字でみるかぎり日本人はたった1%しか救われていません。
福音を伝えともに救われたい、
という気持ちはあるのですが…



■出エジプト38:3彼は、祭壇のすべての用具、すなわち、つぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿を作った。そのすべての用具を青銅で作った。

すすんでささげるささげ物、

すすんですることが大切なのです。
自発的であることを主は喜んで下さいます。
早朝、祈りをささげデボーションする、
とおっしゃったM兄。
世も明けやらぬうちから川原へ行き
長い長い祈りを捧げていらっしゃる牧師先生。

うわ、そんなに早くから起きられない、と思いました。
信仰生活の長さと歩みを感じます。
私も自分の歩みを大切にできますように。



■出エジプト37:9ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」をおおい、ケルビムは互いに向かい合い、その顔は「贖いのふた」に向いていた。

★主の幕屋の建設を託されたベツァルエルの取り組みです。ひとつひとつ忠実に働きを進めます。そしてその働きは神様の前に覚えられています。人の前にではありません。神様の前に最高の仕事をするのです。隠れた所も、人の目に映るところも同様です。人の関心に心奪われれば罠に陥ります。報いは主から与えられるのです。ヒデ

神様の前に最高の仕事、
人の目ではなく神様の前に覚えられる仕事、
私の今の仕事ってなに?
なんにもしてないじゃないか。
実に、やましい。


続きを読む "デボーションメール20120514" »

2012年5月13日 (日)

デボーションメール20120513

■出エジプト33:14すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」33:15それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。33:16私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」

★民が金の子牛を造ったあとの出来事です。民を愛するモーセの姿。主とモーセの関係が鮮やかに描かれています。あなたがモーセのごとく立つところはどこでしょう。

私がモーセなら…
実に情けない。
でもおバカなわが子ほどかわいいというではないか。
ここはなんとかとりなさなければならない。
わたしがモーセのごとく立つところ、
もう少し考えてみようと思っている。
でももう答はわかっている、
それをするにはどうすればよいか、
それもほんとうはわかっている、
でもできないな、むずかしいな、
と私は思っている。
そしてぐずぐずして、
もう少し考えてみたい、
などと言っている。



■出エジプト34:29それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。

★二度目に授かった石の板「十戒」です。何と言う神様の憐れみ深さ。神様は悔い改める民に何度でも神のことばを授けて下さいます。人生はどこからでもやり直すことができ、かつ人を輝かさせるのは神のことばとの交わりです。

うん!
顔が輝きを放つ、
その話をされていました。
この個所ではないけれど、新約聖書で。
どこからでもやり直すことができる、
力強く、温かく、有難く心に響きました。
やり直すのに早すぎることも遅すぎることもない、
と思いました。



■出エジプト35:20イスラエル人の全会衆は、モーセの前から立ち去った。35:21感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。

★主の赦しに応答した人々の証しです。彼らは荒野を生きるために、共に心を合わせて主が臨在される幕屋の建設のための作業に取り掛かります。新約の時代。この地にも神の御国「支配」が、あなたという存在を通して広がりますように。ヒデ

主の赦しに応答しなくてはいけないのでした。
私という存在をとおして主の御国が広がるなんて…、
うーん、そうなったらすごい。


2012年5月12日 (土)

デボーションメール20120512

■出エジプト30:37あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。30:38これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」

★主の前にささげる最も香りよき香。それを自分に向けて焚いてはならない。主におささげすべき栄光を自分にささげてはならない。すなわち主が受けとるべき栄光を自分が奪ってはならない。栄光は主のもの。「誇るものは主を誇れ」と言うことです。主が受けるべき栄光を奪おうとする者は自分自身が分からなくても、主とまわりの人には臭いと共に分かります。しかし本人は分からないからこそ、私たちは愛をもって指摘されなければならないのかも知れません。

主が受けとるべき栄光を自分自身がわからないままに奪うということは
どういうことでしょうか?
というか、わかっていたら奪おうとする人はいないのではないでしょうか?
そんな大それたことをわからないままに私は、しているのでしょうか?

“誇るものは主を誇れ”心に刻みつけておきたい。


■出エジプト31:14これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。

★礼拝中でもカバンをあけ、仕事をしたくなる誘惑にかられる現代です。その真っ直中で主に心を向けるあなたは主の誇りです。

カバンをあけないまでも頭の中は仕事でいっぱい…。
自分で言うのもなんですが、けっこう私は真面目人間でとおっています。
本当はそんなに真面目一辺倒でもないのに、そう見えるらしいです。
世間をあざむく詐欺師?
それはさておき、私は本当はプライベートを守りたい人間で、
職場以外では仕事のことは忘れていたい、
それなのに、まるでそれがいけないことのように評価される現場

プライベート中も仕事で頭がいっぱい、
家庭にまで仕事を持ち込むことが美徳になっている。
変、変、変、絶対おかしい。




■出エジプト32:34しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

★自分たちのために金の子牛を造ったイスラエルに怒りを抱いたモーセに対して、主が語られた言葉です。ここからも、やがての日に、今まで留めておいたすべての罪を裁かれ主の姿を垣間見ます。まさに「報復は私のすることである。」です。主が再び来られた時にそれは実現します。神様を畏れる者であり続けましょう。ヒデ

以前、私はこの個所の意味がどうしても理解できませんでした。
けれど今は、わかった、と思っています。
わかったつもりになっているだけかもしれません。
うまく説明はできませんが、でも、
神様を畏れるものであれというのはこういうことなんだと、
思います。



2012年5月11日 (金)

デボーションメール20120511

■出エジプト28:1あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。

★祭司制度の誕生です。イスラエルの同胞を胸に抱き、神様の前に出て執り成す祭司。彼らだけが聖所の中に入ることをゆるされ、神様と民との間に立って仕えるのです。今やその働きは主の臨在を自らの内に宿すものとなったクリスチャンに託されました。あなたは祝福の祭司です。

私が祭司?
昨日はわかりませんでした。
なぜ、私が祭司なんだろう?と思いました。
かつて、神様がアロンたちを祭司として仕えるようおっしゃいました。
今の世、その役目は世のクリスチャンに託されている…
でもまだ、任命されていないような気もする私、
その働きを任されるには未熟過ぎると言われそう。




■出エジプト29:42これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。

★主が語られる場所は契約の箱の上に置かれた『贖いのふた』の間だから、そこを翼で覆い一心に見つめるケルビムの間だから語られることを既に確認しました。祭司はその御声を聞くために聖所の中に入り、細き御声を聞くのです。その御声は一方通行ではありません。主は「そのところであなたと語る」と約束されました。語り合うために、さあ主はあなたを待っておられます。ヒデ

祈りは神様との対話、
どちらかの一方通行ではない。
神様を畏れつつ親しみをこめてお話したい
と思ってはいけないかなあ。
天のお父様はいつも私たちに愛を注いでくださるけれど、
親父、とか、おとうちゃん、と呼んではいけません。

2012年5月10日 (木)

デボーションメール20120510

■出エジプト25:22わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

★神様は約束の地に向かうイスラエルと、ご自身が共にあるために、聖所と契約の箱を造ることを指示します。上の御言葉は、そうするならと語られた御声です。主は『贖いのふた』から語られる方。すなわちそのメッセージは赦しです。あなたを訴えるものはサタン。人はヘビににらまれたカエルではありませんが、以外と不健康でありつつも主からの赦しを受けとるよりも、自虐的なサタンからの言葉を受け取り、自己憐憫の中に留まり続ける事も。あなたは『贖いのふた』の合いだから語られる主の御声によって生きるのです。

私は自虐的なサタンの言葉を受け取っているのかもしれない。
主からの赦しを受け取っているつもりでいたのだけれど、

自己
憐憫、
…あるかもしれない。



■出エジプト26:1幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。

★今度は聖所と契約の箱が収まる幕屋についての神様からの指示です。あの少年サムエルも、バプテスマのヨハネの父となったザカリヤもこの幕屋の中で主に仕えたのです。

聖書通読をしながら、なんと細かく定められているのだろう、
と思いました。
でも、
このとおりに作られなければならなかったのだし、
実際そのように作られたのだと思います。
かつて私は神様は細かいことはいちいちおっしゃらない方なのだと
なんとなく思っていました。
でも…、違いました。
この辺りになると、正直なところ、私はさっぱりわかっていません。
いったい、本当に大切なことは何なのだろう?
そんなことをふと思いましたが、
いやいや聖書に書かれてあるのだから…、
聖書にその記載があるというだけでそれでいいのだ、
と思い、考えるのをやめました。
誰かに尋ねられたら牧師先生に尋ねて下さいと言えばいい。
私ももっと信仰の道を歩んでいけば、そのうち何かつかめるかもしれない、
と思ったのです。



■出エジプト27:1祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。高さは三キュビトとする。27:2その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。青銅をその祭壇にかぶせる。

★祭壇とはいけにえの動物の血を注ぐために用意されたもの。民はここで主の前に出るとき、自らの罪深さを自覚したのです。あなたの赦しのためにはキリストの血の犠牲があったこと心に刻みましょう。ヒデ

全く無垢の動物の血を注ぐことにより、
ひとはゆるされなければならなかった。
私はイエス様の血を注がれた者、

私はゆるされている。
罪にまみれた生きる価値のない者がキリストの血により、
生かされている。
永遠の滅びにではなく天国につながっている。
本当に?
こんな私でも?

とすれば素晴らしい。


2012年5月 9日 (水)

デボーションメール20120509

■出エジプト22:2──もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない。22:3もし、日が上っていれば、血の罪は打った者にある──盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし彼が何も持っていないなら、盗んだ物のために、彼自身が売られなければならない。

★約束の地カナンに向かうイスラエルの民の中に問題が生じた場合の一つの基準を主がモーセを通して示されます。起こってくる内容はさまざまであっても確認されることは同じです。他者に危害を及ぼしたものの動機は故意か偶然か。故意の場合は厳しく、それ相当に償いが求められ裁かれますが、故意でない場合は寛大な対応をしなければならないということです。


悪気はなかった、知らなかった、
だからと言って赦されるものではない、

それ相応の償いは必要。
けれどそこに悪意があるかないか、
大きい違いがある。
ヒトがヒトを裁く裁判であっても情状酌量というものがある、
遠い昔に神様はすでにそのようにおっしゃっていたのだと知りました。



■出エジプト23:6あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。23:7偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。23:8わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
■出エジプト24:12主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」

★主は約束の民のためにはご自身のことばを必ず授けて下さいます。かつては石の板にでしたが今はあなたの心に刻みつけて下さいます。「登って来なさい」と語られる時、ひとりになることを躊躇せず主の前にでましょう。世々の聖徒はそこで細き主の御声にあずかり、主の臨在によって輝く生涯へと移されました。ヒデ

23章のこの個所は当然のこと思えることを神様が
おっしゃっています。
私が生きている現在の日本ではあたりまえのことと
誰もが思える内容で、
けれどもそんな人間として当然と思えることも
神様が世を創造されたときに定められたことだったのだと知りました。
映画で、炎が石の板に“十戒”を刻みつけていくシーンを見ました。

聖書を開きこの個所を読みますと、確かにこんな感じかな、
と思います。
神様はあのように熱く焼きつけて刻みつけて下さるのですね。
ひとりになることを躊躇する私。
でも主がいっしょにいて下さるならひとりであって、ひとりでない。


2012年5月 8日 (火)

デボーションメール20120508

■出エジプト19:17モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。

★モーセがシナイ山で主から十戒を授かる前の話ですが、ここに神様に仕える働き人の歩みが。多くの人は実際の生活の安定を求めて、宿営に留まることを願うのかも知れません。変化よりむしろ安定への願いが強い場合があるからでしょう。しかし主に仕える働き人は、更なる祝福を民が主から受けとれるようにと召されます。人々は新約の祭司とされたあなたの生き方を見ています。

特に私は安定を求める傾向が強い人間です。
向上心がないわけではないのですが、
より多くを求めて危ない橋を渡るより
今の安定を守ろうとする傾向にあります。
どこかに、もうこれくらいでいいからという思いもあります。
けれどここで主は私に望んでいらっしゃるように思えます。
何を?

御自身の授ける祝福を私が受け取れるように。
私も宿営から出ていくのかなあ。



■出エジプト20:2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。20:3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

★モーセがシナイ山の頂きで主から受けとった10の戒めの一つです。主は神様との関係と隣人との関係について戒めを与えられましたが、イエス様は、新約時代これを二つに集約されます。すなわち、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛せよ」です。そしてこの戒めは今の時代にも効力を持っています。

確か、嫉妬深い、と表現されている個所がありました。
そこだけ読むと『なんという神様だ』と思われそうだなあ
とキリスト教に否定的なひとたちに何か言われそう、
などと私は妙に心配になります。
もっとうまい言い方はないのでしょうか?

というわけで、いろいろな訳をみなければなりません。


■出エジプト21:24目には目。歯には歯。手には手。足には足。……21:26自分の男奴隷の片目、あるいは女奴隷の片目を打ち、これをそこなった場合、その目の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。

★主から十戒を授かった民としての人の道を、主はモーセを通して語られます。「目には目を」とは人を悪意なく傷つけてしまったものが守られるようにとの戒めです。人の欲と憎しみは時に際限なく増殖します。神様はそうした力で神の民が動くことを願われないのです。いつの時代も自分の罪深い自我を十字架に付けて、人間関係を築くようにと主は願われます。ヒデ

目には目を、歯には歯を…
子供の頃、ハムラビ法典の教理だと思い込んでいました。
キリスト教ではそんなことは言わない、と思っていたんですね。
でも旧約聖書にはちゃんと書かれているのです。
これはけして復讐の意があるのではなく、
守るための言葉だったのですね。

2012年5月 7日 (月)

デボーションメール20120507

■出エジプト16:2そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。16:3イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

★荒野で上の様な不信の言葉を民が語った時、主はイスラエルの日ごとの糧のために、天から「マナ」を降らせて下さいました。同時に民はこの恵みの中で試されます。神様に信頼するか否か。主は人のつぶやきを赦されました。人が自分自身どの様なものか深く理解させて下さるために。高ぶりと、不信の愚かさに気づく人は自分自身を救います。

私はこの会衆そのものの愚かな者です。
もう少し根性があると思っていました。
だんだん、自分の愚かさを知るようになりました。
そして自分は他の人よりも劣っているなあ、
と思いました。
他の人は私をそう思ってはいないようで、
ある意味助かるけど、
本当の自分は実に小さき者だ、
それを知ってため息の出るような思いでした。



■出エジプト17:11モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

★アマレク人との戦いの一コマです。主はこれを記録として書き記せと命じられます。もちろん大切な教訓だからです。主はあなたの祈りを聞かれます。

長い時間をかけて祈りましょう、
牧師先生がおっしゃいました。
もちろん、だらだらとお願い事をするなどという意味ではありません。
神様との対話の機会をできるだけ多くもち、
余すところなく神様に語りかけようとすれば、
自然と長い祈りになるでしょう。
一日の業を終え眠りにつく前、お祈りをします。
あろうことか、私はいつのまにか眠ってしまっていることがあります。
大切な“イエス様の御名前によって…”
と言わないまま祈りは途切れています。
また、牧師先生は、短くてもそれはそれでかまわない、
とおっしゃる、
神様助けて下さい!その一言でもいいのですよ…。
聖書には確かに、

SAVE US という個所があるようです。
少しでも何かあれば、その場で祈る、
本当に神様をお迎えしていらっしゃる兄弟姉妹は
祈りを基本として大切にしていらっしゃいます。
ところで、この私…。
助けて下さい!しか言葉に出てこないことがけっこうあって、
こんなお祈りじゃダメ、と思っていましたが、
心からほとばしるように助け手を求める祈りは本当にきかれるのです。
何でもかんでもお祈りします。
まさに苦しい時の神頼みで、しょっちゅうなんでも祈ってしまいます。
神様、それだとお忙しくてかないませんね。
牧師夫人が微笑んでおっしゃいました。
神様は御用聞きではないし、キリスト教は御利益宗教ではない。
しかし、なんと願い事の多い祈りをささげていることか…、
で、ほとんど、いや、全て神様は叶えて下さいました。
愚かな小さき者の願い事にもちゃんと耳を傾けて下さいます。
きっと私にそれを教えるためだと思います。
祈りとは…?
神様との対話、
神様にお話しすること、
語りかけること。


■出エジプト18:17するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。18:18あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。

★重荷を負い合うことの尊さを主はイテロを遣わしモーセとイスラエルの民に諭させます。結果、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長が召し出され民に仕える事となります。あなたは一人で多くを抱えすぎて、見るべきものを見れない状況になっていませんか。ヒデ

好きで抱えこんでいるわけではない、
何もかも自分がやらないと気がすまないとかそんなわけではない。
もっと皆にしてもらいたいのに、
あまり皆が忙しそうだから…、

ただ、言いだせないだけ。
神様は私が背負えなくなった時、
そっと荷をおろしてくださるのでしょうか?
いっしょにくびきを負って
いっしょに進もうと言って下さっていますが、
私はそのくびきをちゃんと負っていないのですか?




2012年5月 6日 (日)

デボーションメール20120506

■出エジプト13:19モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。

★いかにヨセフによってエジプトが飢饉から守られたことか、しかしそのことを知らない新しい王が生まれてから、イスラエルは400年間の奴隷生活をエジプトで強いられます。そんな中にあってもイスラエルの民を支えたのが、まさにこのヨセフの遺言でした。あなたの残りの地上の生涯が、このメッセージを深く刻み続けるものでありますように。

子供の頃、聖書物語を読みました。
単にそれは読み物でしかありませんでした。
今、私は聖書を知ろうと、理解しようと努力を始めました。
聖書に書かれてあることは全て本当におこったことばかり。
中にはとても信じがたいような内容もありますが、
聖書に書かれている限りは誰が信じても信じなくてもそれは事実。



■出エジプト14:13それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。

★前には紅海、後ろはエジプトの戦車と、逃げ場を失ったイスラエルの民は、呪いとも言うべき苦々しい言葉をモーセにぶつけます。その時主が語られた言葉、それが上の御言葉です。時代は変わっても選びの民を絶対絶命の状態から救われるお方は変わりません。静まって主の救いを見る信仰に立ちましょう。

主の救いをみる信仰、
選ばれた民は時や場所が変わっても
主の救いにあずかることができるということでしょうか。
イスラエルの民は40年間旅を続けました。
そしてその間、笑えるほどの愚行でモーセを悩ませました。
人は弱いもので、苦しくなるとすぐに主を裏切るのです。
不平不満を口にし、エジプトにいた方がよかった、
とまで言います。
私がこの愚かな民とどれほど違うといえるのだろう?


■出エジプト15:25モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。

★一本の木とは、やがてのキリストの十字架を象徴します。十字架は投ぜられるそこを人が生きることのできる地とします。ヒデ

旧約聖書と新約聖書ってどう違うの?
新約はイエス・キリストお生まれになってからのことで、
旧約はそれまでの記録です。
なんともお粗末なことしか言えない私。
けれど、旧約聖書には
やがてキリストが誕生がするとはっきり記されています。
私が初めて読んだ聖書は、新約聖書だけの、
確か英語対訳の横書きだったような…。
ギデオンの贈呈書でした。

私がいただいたものではなかったのですが、

今、手元に残っているのは
その時いっしょにいただいたと思われる真っ赤な表紙の讃美歌だけ。
その後、買ったのは“新改訳”
今、使っているのは“口語訳”

讃美歌から聖歌、そして新聖歌、
と使う賛美集も変わりました。

黒い表紙の聖歌は、
これはなんと、
私が統一教会に通っていた時に購入したものです。



2012年5月 5日 (土)

デボーションメール20120505

■出エジプト10:23三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。

★心頑ななパロに対して神様が次にモーセに命じられたことは、エジプト全土を闇で打つことです。しかし不思議、イスラエルの人々の住むゴシェン地には光があったのです。死を意味する闇を極端に嫌うエジプトの中で一際神様の臨在の輝きが際立ちます。

神様のいらっしゃるところには光があります。



■出エジプト11:4モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。11:5エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。11:6そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』

★なぜこれほどの試練を経験しなこれば、パロはイスラエルを去らせることが出来ないのか。ここに人の罪深さの現実が描かれます。イエス・キリストが成し遂げられた救いによって自我を十字架につける恵みが開かれたことを感謝しましょう。

私がエジプトのような試錬を経験しないで置いて下さるのは、
イエス様が救って下さったから。
ありがとうございます、感謝いたします。



■出エジプト12:13あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

★「鴨居に塗られた血を見て私は過ぎ越す」。その意味は裁き済みとの意です。信仰によってイエス・キリストを受け入れたあなたの全身にはキリストの血が塗られています。ゆえに神の御前における裁きの日においても、あなたは守られるのです。ヒデ

イエス様が私に御自身の血を塗って下さった、
私をまもるために。

もう私は神の御前における裁きの日を
びくびくして待っている必要はない。

2012年5月 4日 (金)

デボーションメール20120504

■出エジプト7:3わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。7:4パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。

★エジプトの王パロは、主がモーセとアロンを用いて杖をヘビに、ナイル川の水を血に変えたとき、呪法師を用いて同じ事をなし、心を頑なにします。結局、主によらなくても私でもできるというのです。主の前でも、自らの損益に支配され、心頑なにする人の姿がパロの存在を通して浮き彫りとなります。

呪法師はどうやって杖をヘビにかえたのだろう、

と映画を見た時に思いました。
しょうもないことを考えていると言われそうです

モーセ達は主の御力でそれをしました。
でも呪法師の術は何かしかけがあって…、手品みたいなものなのかなあ?
それはさておき、主はまずここでパロの心を頑なになさいました。
ここでパロの心を頑なにしないでおこうと思えばおできになるのに。
主はこのように何でもおできになる方です。

自らの損益に支配される私自身の頑なさ、
を示されました。
私は知らず知らずのうちに頑なになっています。



■出エジプト8:15ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。

★今度はカエルとぶよの災いが、主の前に心頑ななパロの上に臨みます。そして彼の特長は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」です。そしてこの箇所のもう一つの特長はイスラエルとエジプトの民の間を区別して救いを置くと神様が宣言なさったことです。その救いは今あなたの上にも注がれています。

『喉元過ぎれば熱さを忘れる』
良くも悪くも
人間の特質をとてもよく言い表している。
本当にそのとおりだと思うことが多い言葉のひとつ。
民の間を区別して救いを置くとは、どういうことか考えます。

私の上にも注がれている救い。

いまいち私にはわかっていないように思います。

わかっているのかわかっていないのか、

そういうことが私にはあまりに多い。


■出エジプト9:7パロは使いをやった。すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。

★心頑なになるパロ。「……。それでも」でしょうか。「それだからこそ」でしょうか。状況がどうであれ、いえ悪くなれば悪くなる程に従いたくない。それがまさに強情の特長です。その結果、パロは最愛の息子を失います。自分は神様に取って変われない。この真理を心の底から受けとることが求められているのです。ヒデ

パロの心は主によって頑なにされています。

主がパロの心を頑なにされたのは、
私自身の頑なさをお示しになるためであり、

それはとりもなおさず私がパロであるということでしょうか?
主のなさることです。
パロの心を変えることなどたやすいはずです。

それでも…、それだから…、
私も陥りやすい状況なのですが、

私は痛い目に遭いたくないのでもう少し早く“降参”、っていうかも。
でもね、気づかないところで頑なになっているんですよ、

私は。

2012年5月 3日 (木)

デボーションメール20120503

■出エジプト4:10モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」4:11主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。

★エジプトから民を脱出させた指導者モーセ。しかしモーセといえども恐れや、弱さのない人ではありません。人を強くされるお方は神様です。神様はあなたにも、あなたでなければなし得ない使命を与え、あなたを強く支えて下さるお方です。

人を強めて下さるのは主。
病と必死で闘っている友人がおります。
思いのほか病気が進行しており身辺整理に手をつけようとしたほどですが、
元気になります、と宣言してくれました。
なんと声をかければよいのか、
なんと祈ればよいのか、私はよくわからないのです。
ただ、病と闘う彼女を強めて下さいと祈っております。
限られた命かもしれないし、それが主の御考えならば
受け容れるまでです。
かつてイエス様が
この杯を過ぎ去らせて下さい、
と天の父に祈られた時にもイエス様は
『わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』
と祈られています。
彼女の病気を治して下さい。
そう祈りたい。
けれどそれはまちがっているように思うのです。



■出エジプト5:2パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」

★「イスラエルを去らせよ」とのモーセの言葉に「主とはいったい何者か。私は主を知らない」とはエジプトの王パロの言葉です。いえ彼の本音は「私こそが主である」でした。しかし人はたとえどんな王国を築くことのできる王であっても、主にとって変わることはできません。結果パロは紅海の底に沈むのです。主を知ることに富む者でありましょう。

パロは自分が一番エライ、と思っています。
実際、エジプト全土で彼にまさる権力をもつ者はいないでしょう、

人間では。

やはり、私も私の中では自分が一番エライと思っている。

自分を動かすのは自分ですから。

では、
自分が自分を動かす時は神様に伺ってからにします。



■出エジプト6:29主はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」6:30しかしモーセは主の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」

★神様にお仕えするために召し出された者が心に留めるべき教訓です。自分を見たら神様の使命を果たすことはできません。成し遂げさせて下さる主を仰ぐのです。ヒデ

そうか、やるのは自分ではなかった。
神様でした。

2012年5月 2日 (水)

デボーションメール20120502

■出エジプト1:6そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。1:8さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

★結果イスラエルの苦難の生活がエジプトの地で始まります。しかしエジプトがイスラエルを虐げるようになった動機を見ますと「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」と、恐れと貪欲であることが分かります。恩を忘れる人になってはなりません。自分の内にある恐れの為に力で相手をねじ伏せる人になってはいけません。

出エジプト記、という本を読んだことがあります。
聖書を読んだのではなくそれ1冊がまるまる出エジプト記でした。
けっこう分厚い文庫本でした。
“十戒”という映画も
観ました。
非常にスケールの大きい映画でCGなどない時代に作られた映画です。
母はかつてこの映画を観て「日本では撮れない映画だ」と思ったそうで、
ぜひ観に行くように、と勧めてくれました。
母はノンクリスチャンですがときたま私の信仰生活にさりげなく係わります。
旧約聖書
デボーションメール、今日から出エジプト記にはいりました。


■出エジプト2:10その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです」と言ったからである。

★多産のイスラエルを恐れたパロは男の子なら殺せと命令します。3ヶ月目となり隠しきれなくなったレビ人が赤子をナイル川に流した時、それをパロの娘が拾い上げるとは。乳母(実はモーセの産みの母)によって成長したヘブル人が王女の息子となったのです。その名はモーセ。

赤ちゃんはパロの娘に拾われました、よりによって。
しかも、産みの母はモーセの乳母に。
主の御計画ってすごい。



■出エジプト3:9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。3:10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

★何のためにモーセはナイル川から引き出されたのか。このことのためです。主はまたあなたをもこの世から引き出されました。ヒデ

主はエジプトからイスラエル人を連れ出すためにモーセを生かされました。
この世でまだしなくてはならないことがあるから生きてるんだよ、

って言ったひとがいたけれど、

ひとりひとりが主に用いられている。
クリスチャンかノンクリスチャンかは問題ではないような気がする。

ノンクリスチャンは知らないだけ。


2012年5月 1日 (火)

デボーションメール20120501

■創世記48:21イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。

★父ヤコブが危ないと知らされたときヨセフは二人の息子を連れて父の元を訪れます。そこでヤコブはヨセフの子マナセとエフライムを祝福し、ヨセフに希望を与えます。すなわち約束の地であり、先祖の地であるカナンへの帰還です。あなたは大切な人の為にどんなメッセージをもっているでしょう。その為にどのように神様からの語りかけに耳を傾けているでしょう。

大切な人へのメッセージ・・・
私が伝えなくてはならないこと?
神様が私を用いて伝えようとなさっていること?
神様からの語りかけの耳を傾けるということは、
そういうことも意味しているんですね。



■創世記49:1ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。

★ヤコブの息子達への遺言が語られる章です。神様から託された12人の子供達への預言と、自らの願望を語ります。神様は確かにアブラハム、イサク、ヤコブと、ご自身の立てた選びの器を用いてみわざを進められました。それが証拠にここで預言されることがことごとく成就するのです。「押しのける者」ヤコブを召しだし、神の皇太子「イスラエル」と定められた神様のご計画がここに完成します。そして神様はあなたの人生も必ず完成へと導かれます。

神様の御計画、
選びの器、
神様に失敗や間違いはない。ということは
私の人生は必ずや完成へと導かれる、ということですか?
もし、完成に導かれないとすれば
そこには永遠の破滅が待っているということ。



■創世記50:24ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」50:25そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。

★人生いかに生きたか、そして何を残すか。人は生きたようにしか死ねません。ヨセフはここで希望を残します。それが神様と共に歩んだヨセフの生き様でした。ヒデ

よりよく生きる、
私はよくそう思うのですが、

確かにその人の生きざまは死にざまだ、
と言うヒトがいます。
あんなことしてたらろくな死に方をしない、

などという言い方もします。
ばちがあたって野たれ死に。
そんな乱暴な言い方もします。
ばちが当たったのではなく、
自分が選んだ死にざま、ということになるのかな?

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のコメント

最近のトラックバック

無料ブログはココログ